2010年11月18日(木)御心を求める主の祈り(ルカ22:39-46)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
一人でいることと孤独であることは、似ているようで違います。大勢の仲間に囲まれていても、孤独を感じるときがあります。逆に一人ぼっちでいても、たくさんの人たちの励ましを感じるときがあります。
きょう取り上げようとしている個所は、弟子たちと共にいながら、しかし孤独に祈りをささげるイエス・キリストの姿です。弟子たちさえも、この時のイエス・キリストの苦悩を理解し、共に祈ることはできませんでした。
もっとも完全に孤独なのかといえば、そうではありません。祈りを聞いておられる父なる神がいらっしゃいますので、そういう意味では完全な孤独ではありません。父なる神の御前で切々と御心を祈り求めるイエス・キリストの姿です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 22章39節〜46節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」[すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。][イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。]イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
最後の晩餐のあと、イエス・キリストは弟子たちとともにエルサレムの町をあとにして、いつもの場所に行かれました。日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされるのが、この何日間かの習慣だったからです(ルカ21:37)。ただ、今まで違うのは、ここで弟子たちと過ごすのは今夜が最後であったということです。
この夜、イエス・キリストは今までにない苦悩の中で祈られました。
ルカによる福音書はこれまでにも祈る姿のキリストを何度となく描いてきました。洗礼をお受けになったときの祈る姿(3:21)。ご自分の評判が広まる中で、人里離れたところに退いて祈る姿(5:16)。十二人の弟子たちをお選びになる前に夜を徹して祈る姿(6:12)。また弟子たちに初めて人の子が受ける苦しみについて明かされる前にも、一人で祈るイエス・キリストの姿をルカ福音書は描いています。たびたび祈るその姿を見て、弟子たちは「わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったほどです(11:1)。
しかし、これほどまでに祈り苦しむ姿を描くのは、あとにも先にもこれが初めてです。
ルカによる福音書はその姿を「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(22:44)と描いています。
肉体的な苦痛から、手に汗を握り締め、顔を歪めながら祈ったという経験なら私にもあります。しかし、イエス・キリストは肉体の苦痛のために汗が血の滴りのように地面に落ちたのではありません。心の中の苦悩のために、悶え苦しんで祈られたのです。
イエス・キリストは何を祈られたのでしょうか。こう書いてあります。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」(22:42)
「この杯」とは、直接的にはやがて起ころうとしている十字架での処刑です。では、イエス・キリストは十字架での死を恐れたのでしょうか。いいえ、そうではありません。それは私たちが思う「死ぬのが怖い」という恐怖心とはまったく違った種類のものです。
「この杯」とは、直接的にはやがて身に降りかかろうとしている十字架での処刑ですが、このイエス・キリストがお受けになる十字架の死は、この時代、他にも何百人と処刑されてきた十字架刑とは全く違った意味がありました。その意味を知っていたのは父なる神と子なる神イエス・キリストだけです。
後に聖書を通して明らかにされますが、このイエス・キリストの死は、わたしたち人間が当然受けなければならない犯した罪に対する罰に他ならないのです。
イエス・キリストが苦悩されたのは、十字架で命を落とすという肉体的な痛みを思ってのことではありません。そうではなく、人間の身代わりになって受けようとしている、罪に対する神の怒りと裁きの重さを思ってのことです。
「神の怒り」という言葉を聞いてもあまりピンとこないのが罪深い人間です。むしろ肉体の死を恐れるのがわたしたち人間です。しかし、イエス・キリストにとってもっとも恐ろしいことは、父なる神の怒りを買うことです。罪に対する神の怒り受けるとは、言い換えれば、神の愛からまったく切り離されてしまうことです。これほどまでに絶望的で恐ろしいことはありません。
イエス・キリストは罪のないお方ですから、ご自分の罪のためではなく、人間の罪の身代わりとなって引き受ける罰です。しかし、身代わりだから、形だけ罰を受けるというのではありません。人間の誰もがいまだかつて経験したことがない、神の愛からの完全な断絶を、イエス・キリストはご自分の身に引き受けようとされているのです。だからこそ、苦しみ悶え、汗が血のように滴るほどに真剣に祈られたのです。
イエス・キリストはこの祈りの中で、「この杯をわたしから取りのけてください。」と願いましたが、自分の願いを一方的に押し付けることをしませんでした。「御心ならば」とおっしゃって、自分の思いではなく、父なる神の御心がなることを願われたのです。
イエス・キリストはかつて弟子たちに主の祈りを教えられたときに「御心がおこなわれますように」(マタイ6:10)と祈るように教えられました。その祈りの実践をイエス・キリストはこの祈りの中で示してくださっています。しかも、御心を願う祈りとは、ただ何も祈らずに神にすべてを丸投げしてしまう祈りとは異なります。自分の考えを持ちながら、しかし、その自分の思いの方を神の御心と一致させようとする祈りです。
イエス・キリストは祈り終わったあと、眠りこける弟子たちをご覧になっておっしゃいました。
「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
この言葉は決して怒りに満ちた言葉ではないでしょう。ご自分のことに関して言えば、イエス・キリストはすでに御心を確信して、進むべき道を選びとっていたはずです。そういう意味では、心は平安に満ちていたはずです。むしろ、心配なのは弟子たちの方です。
イエス・キリストは弟子たちのことを心配して、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」とおっしゃっているのです。
そして、神の御心を真剣に求める祈りこそが、あらゆる誘惑から解き放たれる秘訣なのです。