2010年11月11日(木)来るべき試練の時に(ルカ22:35-38)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教を信じると、人生の様々な苦しみから解放されるのですか。この質問に対して、イエスかノーか、どちらか一つの答えに割り切ってしまうということはできません。
キリスト教を信じたからと言って、病気や事故そのものがなくなるわけではありませんし、悲しいと思ったり苦しいと感じたりする感覚そのものがなくなるわけでもありません。ただ、苦しみに遭遇した時に、信仰によってそれに耐えたり乗り超えたりする力を与えられるということはあるでしょう。
しかし、それとは逆にクリスチャンになったために受ける苦しみというものも、聖書にははっきりと記されています。イエス・キリストご自身、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」とおっしゃって、クリスチャンであるがために受ける苦しみについて語っていらっしゃいます。
きょう取り上げようとしている個所もまた、やがて近い将来にやってくる試練の時についての予告の言葉です。イエス・キリストは弟子たちに十分な備えをするようにと命じています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 22章35節〜38節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。
きょう取り上げる個所は、弟子たちと食事を共にされた最後の晩餐で、イエス・キリストが弟子たちにお語りになった最後の言葉です。
イエス・キリストは、かつて弟子たちを町々村々にお遣わしになった時のことを思い起こすようにと使徒たちに促しています。
「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」
弟子たちの答えは「いいえ、何もありませんでした」というものでした。
イエス・キリストがこのことを弟子たちに確認したのには、二通りの意味が考えられます。一つは、これから弟子たちの身に起ころうとしていることの重大さを認識させるためです。もう一つは、これから起ころうとしていることが、今までの経験とは真逆のことであるからこそ、体験した神の恵みと力の大きさををもう一度思い起こす必要があったからです。
イエス・キリストは弟子たちの答えに間髪を入れずに「しかし今は」とおっしゃって、これまでとはまるで違った時がやって来ることを予告します。そこでは、今までのように財布も袋も履物も持たずにイエスの名によって遣わされても、何一つ不足がないということはありません。むしろ、それらを自分で用意して、自分で必要を賄わなければならない状況が起ころうとしています。
なぜなら、「その人は犯罪人の一人に数えられた」と記す聖書の言葉が成就しようとしているからです。事実、この後イエス・キリストは捕らえられ、十字架の上で犯罪人たちと共に処刑されてしまいます。
そうなったときに、かつてのようにイエス・キリストの弟子だからと言って、喜んで家に迎え入れてくれる人などほとんどいなくなってしまうでしょう。十字架で処刑された者の仲間だとは誰も思われたくないからです。ただ消極的に家に迎え入れないというばかりではなく、積極的に弟子たちを懲らしめてやろうと思う人も出てこないとは限りません。
そうした苦しみを、思いがけない試練にでもあったかのように、ただただ狼狽し、落胆するだけであってはいけません。十分な備えをして、事態に立ち向かわなければなりません。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」
この部分のイエス・キリストの言葉は、翻訳者によって理解が若干異なります。というのも原文では、「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」ではなく、「持っていない者は、服を売って剣を買いなさい」となっています。つまり、「持っていない者」とは何を持っていない者のことなのか、はっきりと語られてはいないのです。
言葉の語られる順番で理解すればこうなります。
財布のある者はそれを持って行き、袋のあるものは同じようにそれを持って行き、しかし、そのどちらも持っていない者は、服を売って剣を持って行きなさい。
つまり、剣は必ずしも必要ではないが、財布も袋も持たないならば、せめて剣だけでも手に入れて持って行きなさい、ということになります。言い換えれば、剣がないとしても、財布だけ、あるいは袋だけで十分ということです。
しかし、新共同訳の理解では、剣は必ず持って行くべき必需品ということになります。財布は持っている者だけが持って行けばよいのに対して、剣は持っていなければ服を売ってでも手に入れなければならないからです。
もっとも、ここでイエス・キリストがおっしゃっている「剣」が文字通り、武力闘争の備えをせよという意味ではないことは、他でのイエス・キリストの言動から明らかです。というのもイエス・キリストはこのあと、弟子たちが逮捕されるキリストを助けようとして、剣を抜いて大祭司の僕に切りかかって耳を切り落としたときに、それをたしなめて、「やめなさい。もうそれでよい」とおっしゃったからです。そればかりか、その僕の耳をお癒しになりました。
つまり、ここで重要なことは、何を持って行くかという文字通りの意味が大切なのではないでしょう。むしろ、今まで弟子たちが体験してきたこととは違う事態が起ころうとしているこの時に、十分対処しうる備えと覚悟を決めることが大切なのです。キリストの弟子だという理由だけで、疎外され苦しみを受けようとする時代が目の前に迫ってきているからです。そのような状況の中で霊的な意味で戦いうる剣が必要なのです。
この戦いは、弟子たちの時代だけに止まるものではありません。聖書はこう述べています。
「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。」(1ペトロ4:12-13)