2010年10月7日(木)心の隙(ルカ22:1-6)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

聖書を読んでいて、わからないという個所は少なくないと思います。その場合の「わからない」という個所は決してどれも同じ意味でわからないというのではありません。
たとえば、ある言葉の書かれた背景や、その表現や考え方が今の時代の日本人にとって馴染みのないものであれば、読んで意味がわからないのは当然です。
あるいは、神がいるという前提そのものを受け入れることができないのであれば、聖書の字面は理解できても、聖書の精神世界を深く理解することは難しいでしょう。
しかしまた、聖書の前提を受け入れ、聖書をなじむほどに繰り返し読んでいても、それでもなおわからないことはたくさんあります。罪が人類に入ってきた理由はなんでしょうか。なぜ神は人間が堕落することを容認されたのでしょうか。その罪人を救うために、なぜユダの裏切りという出来事を神は用いられたのでしょうか。聖書には出来事が起こった事実だけが記されていて、必ずしも人間を納得させるだけの理由がつまびらかにされているわけではありません。
きょう取り上げる個所には、イスカリオテのユダの心にイエスを裏切る思いが入り込んだ次第が記されています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 22章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

ルカによる福音書の最後の三つの章は、キリストの最後の晩餐から、十字架、復活へと進み、キリスト教の中心的な教えのもとになる出来事を描いています。

そのまず初めに描かれるのが、キリストの十二弟子のひとりであるイスカリオテのユダに表れる心の変化です。この後、イエス・キリストが捕えられ、十字架刑に処せられる大きなきっかけを作ったのはこのイスカリオテのユダでした。

ルカによる福音書は19章以来、これまでにも何度もユダヤ人の指導者たちがイエスを捕えようとしながらも、民衆の反感を恐れて手出しできない様子を描いてきました(19:47-48、20:19、20:26、)。イエス・キリストに対する指導者たちの反感は決して今に始まったことではありません。古くは安息日に手の萎えた人をイエス・キリストがお癒しになったとき、すでにイエスを何とかしようとする思いが律法学者やファリサイ派の人たちのうちに生まれていました。ルカ福音書の6章11節に記されているとおりです。
今この時期になって、再びイエス・キリストを捕らえようとする躍起な思いが浮上してきたのにはわけがありました。
その辺りの事情をもっともよく描いているのはヨハネによる福音書の11章47節以下ですので、そのまま引用いたします。

「そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。『この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。』彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。『あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』」

ユダヤ人指導者たちが最も恐れたのは、イエス・キリストを支持する民衆が暴徒と化し、その鎮圧を口実にローマ軍がエルサレムの神殿もろともユダヤ民族を滅亡させてしまうのではないか、ということでした。そうならないためにイエス・キリストを殺してしまおう、というのが彼らの思いでした。

その計画に手を貸そうと密かに名乗りを挙げたのが、十二弟子のひとり、イスカリオテのユダだったのです。なぜ、ユダがそんな大胆な行動に出たのか、その理由は聖書には記されていません。ただ、ルカによる福音書は「ユダの中に、サタンが入った」とだけ記しています。

人類に罪が入ってきたのも、サタンという蛇がエバをそそのかしたことによるものでした。同じようにユダがイエスを引き渡す思いを与えたのもサタンの働きだと聖書はいいます。もちろん、サタンの力がその背後にあったとはいえ、そそのかされた人間に責任がないということではありません。罪は罪なのです。

かつて神はエバを誘惑した蛇に対して、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く」(創世記3:15)とおっしゃいました。その預言の言葉のとおり、今、サタンはキリストのかかとを砕くべく、ユダにイエス・キリストを裏切る思いを与えたのでした。

この不思議な出来事の、人間的な背景を説明しようと、様々な説が唱えられています。たとえばユダはイエスの教えと行動に失望したのではないか、とか、逆にイエスを奮起させるためにわざとイエスを窮地に陥れようとしたのではないか、とか。あるいはユダだけがガリラヤ出身ではなかったので、そのことがイエスたちの一団から離反する要因となったのではないか、など、様々な興味深い説が唱えられています。

もちろん、こうした人間的な要素がまったくなかったとは言い切れません。聖書はユダについて、どういう人物であったかをほとんど記していませんが、二箇所だけ気になる記述があります。その一つは、同じ出来事を記したマタイ福音書の記事です。マタイ福音書はユダが自分から裏切りの代償として金銭を要求したと記しています。ユダなりの主義主張があって裏切ったというよりも、あたかも最初から金銭目的でイエス・キリストを売り渡したような印象を受けます。
これを裏付けるような記事がヨハネ福音書の12章6節に記されています。高価なナルドの香油を惜しげもくイエスの足に注いだ女性の行為をなじったユダの言葉を評して、ヨハネ福音書はこう記しています。

「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」

イエス・キリストを裏切る思いは、ある日突然サタンによって与えられた、というよりも、小さな誘惑に心を許してきた、ユダ自身の生き方の結末であったと言えるかもしれません。

こうしたことは、わたしたちの身にも起こりうることです。小さな不正がやがては大きな裏切りにつながっていくのです。そういう意味で、ユダは特別に悪党面をした人物ではなく、どこにでもいる人物なのかもしれません。いえ、財布を任されるくらいですから、優秀な人物だったのでしょう。
ユダにとって小さな誘惑を放置してきたことは、大きな罪を犯す機会となってしまいましたが、それ以上に残念なことは、悔い改める機会を自分自身の手で立ち切ってしまったことです。
人生に「もしも」ということはいえないのですが、もしも、ユダがイエス・キリストを裏切ったことを心から悔い改めていたとすれば、弟子として働きを続けることができたかもしれません。