2010年9月30日(木)解放の時(ルカ21:25-38)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
世界が滅びるかもしれないという恐れの思いは、聖書の世界に限らず、古今東西を通じて人間が共通に抱いてきた思いです。世界が滅びると古代人が考えた理由はいろいろあると思いますが、現代人はそれとは違ったもう少し科学的な考えから、世界の滅びがあり得ないことではないと考えています。
しかし、聖書が語る世の終わりは、古代人の神話的な空想でもなければ、現代人の言う科学的な可能性の問題でもありません。信仰をもって受け止めるべき大切な事柄です。
今週もイエス・キリストの語る終末についての教えに耳を傾けましょう。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 21章25節〜38節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。
今週もイエス・キリストがお語りになった終末についての一連の教えを取り上げています。そもそものきっかけは、エルサレム神殿の建物の素晴らしさに人々が感嘆の声を漏らしたことが始まりでした。イエス・キリストはこの神殿の石垣が完全に破壊されることを予告なさいましたので、人々はそのことが起こる時期について関心と興味を抱きました。なぜなら、神殿の崩壊と世の終わりとは直結するものだと思われていたからです。
イエス・キリストは神殿の崩壊までに起こるべきことについて、今までお語りになってきました。特に先週学んだ個所では、軍隊がエルサレムを包囲したときこそ、神殿滅亡の時が近いしるしだとおっしゃいました。しかし、そこからすぐに終末の時がやってくるのかといえば、そうではありません。異邦人の時代が完了するまでの期間が必要とされているのです。その期間がどれくらい続くのかは明らかにされてはいません。
そして、きょうの個所ではじめて「それから、太陽と月と星に徴が現れる」という終末を語る独特な表現で終末のときにおこるべき事象について語り始めます。起こるべき異変は宇宙のことばかりではありません。「地上では海がどよめき荒れ狂う」とおっしゃいます。
「終末を語る独特な表現」と先ほど言いましたが、そこに記されていることは具体的にどんなしるしが天体に現れるのか、どんなどよめきで海が荒れ狂うのか、細部にわたって記されているわけではありません。星同士の衝突なのか、爆発なのか、海が荒れ狂うのは津波なのか、高波なのか、あるいは宇宙からの落下物で海が沸騰したように波立つのか、具体的な記述はありません。そういう意味では、旧約聖書の預言書以来の通り一遍な表現で終末の出来事を語っているともいえます。ただ確実なことは、諸国の民はこの未曽有の出来事に、なすずべを知らず、不安に陥るということです。気を失うほどの恐怖に打ちのめされるということです。
そして、その恐怖と不安との中で、人々は再臨のキリストである人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
恐怖と不安の中で再臨のキリストと対面するのですから、人々にとっては再臨のキリストは必ずしも自分たちの助け手として目に映るわけではありません。むしろ、キリストを拒んできた者にとっては恐怖と不安は拭い去ることができないでしょう。
しかし、このようなことが起こり始めたときにこそ、「身を起こして頭を上げなさい」とイエス・キリストはおっしゃいます。なぜなら「あなたがたの解放の時が近いから」です。
大切なことは、終末のときに宇宙や地上にどんな特別なしるしが現れるかではなく、終末のときにやってきてくださる再臨のイエス・キリストを、身を起して頭をあげてお迎えする備えができているかどうかということです。いつ、どんなときに終末のしるしが表れたとしても、常日頃からイエス・キリストを救い主として心から信じている者にとっては、心を騒がす必要は少しもありません。
しかし、どんなに世の終わりの時におこる出来事について詳しく知っていたとしても、また、その前兆を観察して今こそ終末の時だと分かったとしても、キリストを救い主、罪からの解放者として迎えるのでなければ、恐怖と不安と絶望から解放されることはありません。イエス・キリストがおっしゃる通り、なすすべを知らないからです。
さて、イエス・キリストは、それでもなお終末のしるしを見落としてしまうのではないか、という暗黙の疑問に答えて一つのたとえをお語りになりました。
それは、いちじくやほかの木々の葉っぱが出始めると、すでに夏が近いのがおのずと分かる、というたとえです。
日本流にいえば、桜のつぼみが膨らみ始めたのを見て春が近いと感じるのと同じです。桜のつぼみが膨らみ始めるのをうっかり見落としたがために、ある日突然桜が咲いていた、ということは、よほどのことがない限りあり得ないことです。
イエス・キリストは、これらのしるしがいつあらわれるか、特別に注意して見張っていなさい、とはおっしゃいません。普通に信仰生活を送っていれば、誰にでもわかることだからです。
確かにキリストは「いつも目を覚まして祈りなさい」とはおっしゃっています。しかし、目を覚ましてさえいれば、見落とすことはないほどに明らかなことなのです。よほどのことがない限り、見落としてしまうことはありません。そのよほどのことというのは、放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなっている状態のことです。そうならないようにいつも目を覚ましていなさいと、イエス・キリストはおっしゃっています。
主イエス・キリストを信じる者にとっては、世の終わりとは、喜ばしい解放の時なのですから、救い主イエス・キリストの前に立つことができるように、いつも目を覚まして備えていましょう。