2010年9月23日(木)エルサレムの滅亡と異邦人の時代(ルカ21:20-24)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

イスラエル国家の復興と終末の問題は、ほとんどの日本人にとってあまり関心がないテーマだと思います。もちろん、その理由の一つはほとんどの日本人がキリスト教の背景を持っていないということが挙げられます。
しかし、そればかりではなく、日本のキリスト教会の中でさえ、この問題に強い関心を抱いている人というのは、それほど多くはないように思います。欧米の神学者が書いた書物や発言に、イスラエル問題がしばしば触れられることがあるのを見ると、私たち日本人には不思議な感じさえ致します。
それというのも、欧米の世界では現実に多くのユダヤ系の人々と暮らしを共にしてきたという歴史もあって、この問題は日本人以上に身近な問題なのだと思います。

きょう取り上げる個所では、イエス・キリストは神の裁きとしてのエルサレムの滅亡と、「異邦人の時の完了」という謎に満ちた言葉を使っています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 21章20節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」

今、ご一緒に学んでいる個所は、世の終わり、終末についての一連のイエス・キリストの教えです。先週学んだ通り、イエス・キリストがこのことを取り上げたのは、人々が神殿の建物の素晴らしさに見とれて、思わず感嘆の声を挙げたのがきっかけでした。
イエス・キリストはこの神殿の滅亡について預言され、人々はそれを聞いて、その時がいつ来るのかとキリストに尋ねたのでした。

この終末についての教えは、マタイ、マルコ、そして今学んでいるルカ福音書ではほとんど並行して同じことが描かれてきました。しかし、きょうの個所では、ルカによる福音書だけがマタイによる福音書やマルコによる福音書とは違った書き方をしています。

他の二つの福音書が「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら…読者は悟れ…」という謎に満ちた書き出し方をしているのに対して、ルカによる福音書は「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」と記して、その情景を具体的に記しています。しかも、ルカによる福音書がここで描いている中心の出来事はエルサレムの滅亡とその期間についてです。

ルカによる福音書が描いていることは、遠い将来におこる終末の出来事ではなく、もっと間近に迫りつつあるエルサレム神殿の崩壊のことです。実際イエス・キリストがこのことを預言されてから40年ほどたった紀元70年に、エルサレムはローマ軍によって完全に破壊されてしまったのでした。

けれども、このエルサレム滅亡についての預言を、ただ未来に起こることを予告した言葉ととってはなりません。イエス・キリストはこの都エルサレムが近い将来に直面する出来事について、以前にも告げられたことがありました。ルカによる福音書13章34節以下で、イエス・キリストはこうおっしゃっています。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。」

エルサレムが見捨てられ、その神殿が滅亡するという未来の出来事が、どうして起こらなければならないのか、その理由こそに、耳を傾けなければならないのです。

そうです。預言者たちの呼びかけに応えないばかりか、それでもなおめん鳥が雛を羽の下に集めるように、神の民を集めようとするその神に逆らって、その招きに応じようとしないからです。
イエス・キリストは「書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである」(21:22)とその日のことをおっしゃっています。エルサレムの神殿はとこしえに不動のものであるという約束がある一方で、しかし、神の御心に従わない時に下される裁きについても旧約聖書は警告してきました。
エルサレムの神殿の崩壊は決して、予想外の出来事ではなかったのです。神の民であるイスラエルの不従順に対して下される当然の裁きなのです。

イエス・キリストはエルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」と警告されます。

実は、実際にユダヤとローマとの激しい戦いが起こる少し前に、神殿に不思議な出来事があったと当時の歴史家であったヨセフスがその書物の中に記しています。それは、神殿の扉が、誰が明けるともなく開くという不思議な出来事が起こったのでした。その出来事は神が神殿にお入りになったしるしだと騒がれ、武力にうったえて戦おうとする過激な人々に、エルサレムに立てこもらせる希望と勇気を与えてしまい、ひいてはエルサレムの滅亡へと至る愚かな戦争へと人々を駆り立てる結果となったのでした。自分自身もかつては剣をとって戦ったヨセフスは、その見当違いなしるしの解釈こそ、民族を滅亡に追いやるような悲惨な結果を生みだした原因である、とその書物の中で過去の過ちを批判しています。

なるほど、エルサレムの神殿が破壊されたのは、しるしを見誤ったことが敗因かもしれません。しかし、そもそも、「神が我らに味方してくれる」と思いこむところに、神の呼びかけに心砕いて耳を傾けようとしない心の頑なさと罪深さとがあったのです。

ユダヤ戦争が始まった時、クリスチャンたちは過激なユダヤ人たちとは袂を分かって、イエス・キリストの言葉の通り、いち早くエルサレムから逃げ出した、と後の教会歴史家のエウセビオスは伝えています。

ところで、イエス・キリストは、異邦人が神の裁きの代理人としてエルサレムを踏み荒らすのも、永遠のことではないとおっしゃいます。それは「異邦人の時代が完了するまで」のことです。それから、世の終わりが恐ろしい出来事と共にやってくるのです。

では、「異邦人の時代が完了するまで」とはいつのことを語っているのでしょうか。イエス・キリストはあえて、その答えをおっしゃってはいません。ただ、かつてエルサレムを破壊したバビロニアの支配にも終わりがあったように、異邦人の時は永遠に続くものではないということです。
しかも、パウロがローマの信徒への手紙で語っている言葉を借りるとすれば、異邦人はユダヤ人に対して傲慢な誇りを抱いてはならないのです。

パウロは言います。

「ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。」(ローマ11:20-21)