2010年9月2日(木)メシアはダビデの子か(ルカ20:41-44)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教会を訪ねてくる方たちには様々なニードがあります。キリスト教がそれほど浸透していないこの日本で、教会を訪ねてくるというのは余程のことなのだといつも思います。それだけに、そのニードにはできるだけ親切に応えたいという思いもあります。
しかし、初代教会の時代に、ペトロが語ったように「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」としか答えることができないというのもほんとうです。
人には様々な救いのニードがあって、そのニードの数だけ主のイメージがあるように思います。その事実は否定できませんが、しかし、そのために、かえってまことの救い主であるメシアとの出会いのきっかけを逃してしまうこともあるように思います。
イエス・キリストの時代のユダヤ人には、決してひとくくりにはできない様々なメシア像があったといわれています。
きょう取り上げる箇所には、当時のユダヤ人たちが理解したメシア像のうちの一つが、イエス・キリストによって、その危うさを指摘されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 20章41節〜44節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
きょう取り上げる箇所は、やや唐突とも思えるイエス・キリストの言葉からはじまっています。
エルサレムにやってこられたイエス・キリストに対して、今までは民の指導者たちが入れ替わり立ち代りやってきては、議論を挑んできました。今日取り上げる箇所では、イエス・キリストが話の口火を切っています。
前回学んだ箇所の結びには「彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった」とあるのですから、今度はイエス・キリストから積極的に語り始めるのも当然です。
その最初に語られた言葉は「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と言うものでした。
イエス・キリスト時代のユダヤ人たちが皆、政治的な王であるメシアを期待していたか、ということは、実際にはそうではないことが、その時代の文献から知られています。例えば死海写本で有名なクムラン教団では祭司の系統に属するメシアに優位が置かれていました。そうであるとするならば、なぜ、イエス・キリストは、他のメシア像ではなく、ダビデ王の系統に属するメシアの問題を取り上げたのでしょうか。それが当時のユダヤの世界で主流を占めるメシア像であったからでしょうか。
残念ながら、当時何が主流派で何が少数派のメシア観であったのか、それを判断できるほどの材料はありません。
ただ少なくともいえることは、イエス・キリストがこの問題を取り上げた時に、聴き手の人々には「メシアはダビデの子だ」という考えが広く知れ渡っていたということです。知れ渡っていなければ、議論そのものが成り立ちません。そして、もう一つ言えることは、「メシアはダビデの子である」という考えは内に危険を含んでいるということです。
後で出てくることですが、民の指導者たちはイエス・キリストを総督ピラトに訴え出るときに、イエスは王たるメシアであると自称していると訴えました(ルカ23:2)。つまり、メシアであることは王であることを意味し、ユダヤ人の王であるということは、ダビデがその昔に持っていた強大な力を復興することを当然に含むものであり、したがって、ローマ皇帝の敵であるという論理です。民の指導者たちは、ダビデの子であるメシア像の持つ危険性をもちだして、イエス・キリストを訴え出る口実としたのです。
もちろん、イエス・キリストは、自分が王たるメシアであると自称したことなどありません。まして、後のこの時の事態を予想して、メシアはダビデの子ではなく、従って王でもない、と予防線を張られたわけでもありません。
むしろ、ここでは、「メシアはダビデの子である」というときに、どういう意味でそれは正しく、また、どういう意味でそれは間違っているのか、そのことを明らかにされたのでしょう。
そもそも、「メシアがダビデの子ではない」ということをイエス・キリストが主張されたのだ、とこの個所を理解すると、この福音書の3章にしるされた系図の意味がなくなってしまいます。この系図によれば、イエスはまさしくダビデの子孫です。そして、ダビデの子孫であるからこそ、メシアとしての期待に答えうる資格があるのです。
そのことは旧約聖書の預言書に記されたメシアへの期待とも一致しています。有名なイザヤ書9章5節に記された「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」という預言は、ダビデの末から起こるこの子孫のゆえに王国に権威が増すというメシア的な希望が語られています。あるいは、エゼキエル書34章23節で預言されるメシア的な牧者は、「わが僕ダビデである」と言われています。
他にも語られるさまざまな預言の言葉から、遣わされるメシアがダビデの末として登場し、民を治めるという希望は否定することができません。
しかし、そのメシアへの期待が、現実のダビデ王朝の復興を期待するものとなり、そのような政治的なメシアの登場を期待するものとなれば、旧約聖書の語るダビデ的なメシア像とは大きくかけ離れたものになってしまいます。
実際、ユダヤの歴史が示す通り、このあとローマ帝国との間で民族独立のための戦争がおこり、イエス・キリストの予告した通りにエルサレムの神殿が滅亡してしまいます。
預言者たちがダビデの系統から王的なメシアが生まれると預言してきたのは、けっして、そのようなユダヤ民族の復興を助けるメシアではなかったのです。
その意味で、イエス・キリストは「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。」と問うていらっしゃるのです。
では、遣わされるメシアはどのようなメシアなのか、というと、イエス・キリストは詩編110編から引用して、メシアが主であるお方であると主張されます。
もちろん、この詩編をイエス・キリストが引用されたポイントは、この詩編の作者であるダビデが、メシアを主と呼んいるからには、メシアはダビデの子であるはずがないということを論証しているように見えます。しかし、それは表面上の議論であって、むしろイエス・キリストがほんとうにおっしゃりたいことは、メシアがダビデの子かどうか、という問題よりも、メシアとはどういうお方であるのかということにあるのです。そのためにこの詩編が引用されているのです。
メシアは主と呼ばれるお方であり、神の右に座すお方です。しかも、ここで描かれるメシアは自分で剣をとって敵を倒す軍事的なメシアではありません。主なる神が敵をメシアの足台とするときまで、神の右に坐しているようにと命じられているメシアです。
しかも、その敵というのは、新約聖書全体の証言によれば、神に敵対する勢力、サタンの勢力のことです。そして、そのサタンの力は罪の支払う報酬である死にもっとも端的にあらわれているのです。キリストはこの死の力をも滅ぼすメシアです。