2010年8月19日(木)神のものは神に(ルカ20:20-26)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「世界とそこに満ちているものは すべてわたしのものだ」と宣言されるのは、聖書の神です(詩編50:12)。そういう意味で、人間が自分のものだと思っているものは、主から借り受けているものにすぎません。自分の命でさえ、自分のものではなく、神の御手に属しているのです。そういう人生観をもって生きるのが聖書の世界です。
聖書の世界で罪と呼ばれるのは、この神になり代わって、人間が「世界とそこに満ちているものはすべてわたしのものだ」と思いこんでしまうところにあるのです。
きょう取り上げる聖書の個所で、イエス・キリストはそのことをわたしたちに深く問いかけていらっしゃいます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 20章20節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。
きょうの個所に登場する人々は、明らかにイエス・キリストに対して敵意を抱いている人たちです。イエス・キリストが過越しの祭りのときにエルサレムにやってきたことで、彼らの思いはいよいよ複雑でした。
すでに見てきたように、神殿の境内で毎日教えるイエス・キリストを見て、民の指導者たちはイエスを殺そうと謀りますが、民衆たちがイエス・キリストの話に夢中になって聞き入っているために手出しすることもできません(19:47-48)。先週取り上げた個所でも、彼らはイエス・キリストが語ったたとえが、まさに自分たちへのあてつけであるのに気がついて、手を下そうとしますが、民衆を恐れてどうすることもできませんでした。
きょうの個所でイエス・キリストのもとへやってきた敵対者たちの心にはそうした躍起な思いがあったのでした。
今回は巧妙な方法で、イエス・キリストを陥れようとします。それはイエスの言葉じりをとらえて、ローマから派遣されている総督ピラトの支配と権力にイエスを引き渡そうとするものでした。そのために彼らはとても意地の悪い質問をします。
「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
もし、イエス・キリストがローマ皇帝への納税を拒絶するような発言をすれば、さっそく皇帝への反逆者として訴えることができます。
余談になりますが、あとで明らかになるように、実際、彼らがイエスを訴え出て総督ピラトのもとへやってきたのは、ローマ皇帝への反逆者としてイエスを訴えるためでした。
彼らはイエスを訴えてこう言いました。
「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」(ルカ23:2)
もちろん、きょう学ぶ個所でも明らかなように、イエス・キリストはそのような主張を一度たりともしたことがありません。
さて、話をもとに戻しますが、しかし、逆に、イエス・キリストがローマ皇帝への納税をしてもよい、と答えたとしたらどうなるでしょう。確かに、敵対者たちは訴え出る口実を失ってしまいます。しかし、それでも彼らはその答えを自分たちの目的に都合よく利用することができました。
なぜなら、重税にあえぐ民衆にとっては、異邦人の皇帝に税金を納めることを勧める人物など、期待はずれの救い主にすぎないからです。
どちらの答えがキリストの口から出てこようとも、結局は敵対者たちには好都合だったのです。
もちろん、イエス・キリストもその悪い企みをただちに見抜かれて、こうおっしゃいました。
「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」
デナリオン銀貨はローマの貨幣で、そこにはローマ皇帝の肖像と皇帝が神の子であるという旨の文字が刻まれていました。
銀貨を持ってきた彼らが「皇帝のものです」と答えると、イエス・キリストはすかさず「それならば、皇帝のものは皇帝に返しなさい」とおっしゃったのです。
ユダヤ人たちは十戒が命じる「あなたは自分のために何の像をも刻んではならない」という戒めを厳密に理解していましたので、このような人物の像を刻んだ貨幣はユダヤ人たちに嫌われておりました。まして、その皇帝が神としての性質をもつような文字が刻まれているとなれば、ユダヤ人には所持したくもないほどのものであったはずです。
イエス・キリストはユダヤ民族の感情に巧みに訴えられたのです。神を冒涜するようなこの貨幣を皇帝に返してしまいなさい、と。
イエス・キリストはさらにたたみかけるように、こうおっしゃいます。
「神のものは神に返しなさい」
では、この場合、神のものとは何を指しているのでしょうか。聖書に精通しているユダヤ人の指導者たちには、すぐにピンと来たはずです。
皇帝の像を刻んだ貨幣が皇帝のものであるとするならば、神の似姿に造られた人間こそが「神のもの」というにふさわしいものであるはずです。そうであるとするならば、この自分自身を神に捧げてお返ししているかどうか、その宗教的な態度こそが問題なのです。
神のかたちにかたどって、神に似せて造られたはずの人間が、今、悪い企みをもってイエス・キリストを捕え、抹殺してしまおうとしています。果たして、それは神のかたちに造られた人間がなすべきことなのでしょうか。
賢い彼らは、イエス・キリストのおっしゃりたいことがすぐに理解できたはずです。
神のかたちに造られたものとして、神に栄光を帰する生き方をしているかどうか、まさにそこが問題なのです。