2010年8月12日(木)最後の交渉(ルカ20:9-19)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「初めに、神は天と地を創造された」と聖書はその冒頭に記しています(創世記1:1)。また聖書は別な個所では、天地万物を造られた神は、万物の所有者であると記されています(詩編89:12)。神が天地の造り主であるということと、その所有者であることとは自明のこととして描かれているのです。それに対して人間は万物の主人ではなく、万物の管理をゆだねられた管理人にすぎないのです。
聖書が説く人間の罪は、この神の座に人間が座り、万物の支配者となろうとするところにあるのです。
人間が罪に堕落し、やがて神は一つの民族を選んでご自分の民とし、その民族を通して救い主をお遣わしになる計画を立てられました。しかし、神の所有であるはずのこの民もまた、神の御心を理解せず、自分が支配者のように振舞ったのでした。

きょう取り上げる個所は、そうした神の民であるイスラエル民族の歴史と関係のあるたとえ話です。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 20章9節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

きょう取り上げたたとえ話は「ぶどう園と農夫のたとえ」として知られている個所です。ぶどう園の主人が農夫たちにぶどう園の管理を任せて旅に出たという話です。
ぶどう畑はしばしば神の民であるイスラエルを例える題材に使われています。例えば旧約聖書イザヤ書5章に出てくるぶどう畑の歌は、まさにぶどう畑に例えたイスラエルの話です。

イエス・キリストのお語りになったたとえ話が、自分たちイスラエルのことを言っているのだ、ということは、ぶどう園が題材に出てきたというだけで、当時の人々にも簡単に理解できたことでしょう。
ただ、問題となっているのは、ぶどう園そのものではなく、そのぶどう園の管理をゆだねられている人々のことです。収穫の時が来て、ぶどう園の主人は農夫たちが収穫を納めることを期待して、僕を遣わします。ところが三度にわたって、農夫たちは遣わされた僕たちを袋叩きにして追い返してしまいます。
心を痛めた主人は思案の末、自分の愛する息子を最後に遣わしたというのです。

たとえ話の登場人物にすべて意味があると解釈することは、時として読み込みすぎである場合もあります。しかし、このたとえに出てる、先に遣わされた僕たちとは、旧約時代の預言者たちと考えてよいでしょう。旧約時代の民の指導者たちは神から遣わされた預言者の言葉に耳を傾けようとはしませんでした。かえって迫害さえしたのです。
そして、最後に遣わされる「愛する息子」とはイエス・キリストご自身のことにほかなりません。農夫たちはこの最後に遣わされた跡取り息子さえも、いえ、跡取り息子だからこそ、殺してしまおうと考えます。そうすれば、ぶどう園は自分たちのものになると考えたからでした。
後に明らかになるように、民の指導者たちはイエス・キリストを十字架にかけて殺してしまいます。また、ルカによる福音書は、そのことが起こるよりも前にすでに民の指導者たちがイエスを捕えて殺そうとしていることを語ってきました(20:47)。イエス・キリストがこのたとえ話をお語りになったのは、そういう背景があってのことです。

さて、愛する息子を殺されたぶどう園の主人の怒りがどれほどのものであるかは、誰が考えても明らかです。

イエス・キリストはたとえ話を結んでこうおっしゃいます。

「ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」

このたとえ話を聞いていた民衆は驚きの声をあげて、「そんなことがあってはなりません」と叫びます。

民衆たちには、ぶどう園がイスラエルを表していることは明らかでしたから、自分たちがほかの人たちの手に渡ると聞かされて、驚くのも無理はありません、なんとしてもそうならないようにしたいと願うのは当然です、

けれども、イエス・キリストは詩編118編22節から引用して、このことが必ず起こることだと告げます。しかも、この隅の親石となったその石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう、と警告しています。

しかし、このたとえ話を耳にした民衆の驚きとは裏腹に、律法学者たちや祭司長たちは、驚いて悔い改めようとするどころか、イエスに手を下そうとさえします。かろうじてこの時は民衆の手前、手をかけることができませんでした。しかし、やがて目論見どおりにイエス・キリストを捕え、十字架にかけて殺してしまったのでした。

ところで、イエス・キリストが引用された詩編118編22節を、のちに弟子のペトロはその手紙の中で引用して、こう記しています。

「『見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。』従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』のであり、また、『つまずきの石、妨げの岩』なのです。」(1ペトロ2:6-8)

神のもとから最後に遣わされてきた、愛する独り子であるイエス・キリストと、どういう関係を持とうとしているのか、そこに注意をしなければなりません。このたとえ話はイスラエルの指導者たちに向けられた言葉というばかりではなく、まさにわたしたち自身に語られている言葉でもあるのです。