2010年7月29日(木)宮を清めるイエス(ルカ19:45-48)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
礼拝の改革という言葉をよく耳にします。クリスチャンにとって、礼拝は信仰者としての命にかかわる大切な問題だからです。常に礼拝のあり方が問われ、礼拝に与る者たちが礼拝を通して活き活きとした信仰生活を送ることは、どの時代のクリスチャンにも必要であり大切なことです。
しかし、礼拝の改革というのは、礼拝の形式を整えるというだけでは成し遂げられるものではありません。礼拝する者の心が改まってこそ礼拝の改革も進むものです。
さて、エルサレムに入ったイエス・キリストが最初になしたことは、礼拝の場である神殿を清めることでした。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 19章45節〜48節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
きょう学ぶ個所は、「宮清め」として知られている個所です。エルサレムにやってこられたイエス・キリストは真っ先に神殿にお入りになって、神を礼拝するこの場所を清められたのです。
ルカによる福音書は他の福音書とは違って、この出来事を最も簡潔に記しています。両替人の台や鳩を売るものの腰かけを倒されたりする暴力的な場面の記述が省略され、事柄の本質だけが簡潔に記されています。
当時の神殿では、遠くから巡礼に来る者たちの便宜を図って、両替商や犠牲の動物を売る商売人が置かれていました。
当時の神殿では出エジプト記30章13節の規定に従って、20歳以上の男子は銀2分の1シェケルを神殿に納めることになっていました。それはギリシアの貨幣では2ドラクメに相当します。しかし、この神殿税は、ローマやギリシアの貨幣をそのまま用いることはできませんでしたから、神殿で通用する通貨と交換する必要があったのです。
神殿で捧げられる動物犠牲についても、律法の規定によって傷のないものでなければなりませんでした。それらの動物を連れてエルサレムまで旅することは、巡礼者にとって大きな負担です。そこで、わざわざ遠くから犠牲の動物を連れてこなくてもよいように、神殿でそれを買うことができるように便宜が図られたのでした。
イエス・キリストがこれらの商売人たちを追い出されたのは、必ずしもこうした便宜を図ることに反対だったからというわけではありません。そうではなく、そこで行われていることが、神殿を祈りの家とする精神を失わせ、強盗の巣窟としてしまっていたからです。
両替人も犠牲の動物を売る人も、本来は巡礼者の負担を軽くし、礼拝に専念できるように、善意からできた制度であったことは疑いようもありません。しかし、そうした本来の意図は、いつの間にか忘れ去られ、そこから利益を得る商売の方に中心が移って行ってしまったところに問題があるのです。
こうした商人たちはもちろん勝手に神殿で商売を行うことを許されていたわけではありません。神殿を管理する祭司たちによって許可を得て初めて商売を行うことができるのです。許可を得るためには当然、それなりの上納金が必要です。こうして、神を礼拝するための便宜が、いつの間にか一部の人々の利得とすり代わってしまっていたのです。
「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(ルカ16:13)とイエス・キリストはおっしゃったことがありますが、まさに神を礼拝し、神に仕えるはずの神殿で、神に仕えるはずの人々が利得に仕える者になりさがっていたのです。少なくともイエス・キリストの目にはそのように映ったのです。そしてイエス・キリストはそのことに憤りを感じられたのです。
そこでイエス・キリストは旧約聖書の預言者の言葉から引用して、ご自分がなさったことの意図を明らかにされました。
「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
前半部分はイザヤ書56章7節からの引用です。イザヤ書では「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と記されています。しかし、ルカによる福音書では「すべての民の」という言葉が省略されて、この言葉を引用した意図がどこにあるのかが一層はっきりと示されています。つまり、異邦人を含めたすべての民の祈りの家である前に、そもそも祈りの家でさえなくなっている現実を、この預言者の言葉を通して痛烈に指摘しているのです。
イエス・キリストの言葉はイザヤ書からの引用ばかりではなく、預言者エレミヤの言葉をも思い起こさせます。エレミヤ書7章11節にはこう記されています。
「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」
神の御名があがめられるその場所で、神が神として敬われることがなく、礼拝の場所で悪しきしきたりが何の反省もなく繰り返されている現実を、主イエス・キリストは嘆いていらっしゃるのです。
先週取り上げた個所で、イエス・キリストはイスラエルの民が神の訪れの時をわきまえていないことを涙して嘆かれました。けれども、イスラエルの民が平和の道も、神の訪れの時もわきまえることができなかったそもそもの原因をたどっていけば、結局のところ神と富とに兼ね仕えようとしていた、そういう指導者たちの態度にこそ問題があったのでしょう。
そうであればこそ、イエス・キリストは商売をしていた人々を追いだされ、神の民の心を神を礼拝する思いへと向けさせようとなさったのです。
もちろん、イエス・キリストがなさった宮清めとは、実力で商売人たちを追い出したということに止まるものではありません。それに続いて、毎日神殿の境内で民衆を教えられたのでした。
ところが、民の指導者たちには、このイエス・キリストの行動の真意が残念ながら伝わりませんでした。祭司長、律法学者、民の指導者たちにとってはイエス・キリストがなさったことは、神殿の秩序を乱す暴力としか映らなかったのでしょう。彼らにとっては礼拝のあり方よりもイエス・キリストを殺すことの方が自分たちの課題であると感じられたのでした。
神殿そのものは今はもう存在しませんが、しかし、イエス・キリストが問いかけていらっしゃる問題…神を心からあがめ、神にのみ仕える生き方について、深く思いを巡らせることは、今のわたしたちにとっても大切な事柄です。特にクリスチャンにとっては自分自身の体が聖霊の宿る神の宮なのですから、一層注意深い反省が求められています。