2010年7月22日(木)平和の君イエス(ルカ19:28-44)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書が語る「平和」とは、単に国や民族同士の戦争がないということに限定されるものではありません。罪ある人間が神に敵対して歩んでいることに対して、神がその人間の罪を赦し、ご自分と和解させることからくる状態も「平和」と呼ばれます(コロサイ1:20-21)。
きょうの個所ではイエス・キリストはこの平和をもたらすために来られた「平和の君」(イザヤ9:5)として描かれます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 19章28節〜44節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
今お読みした聖書の個所は、教会の暦では受難週に入る直前の日曜日、棕櫚の日曜日と呼ばれる日にしばしば読まれます。ここより十字架と復活までのおよそ一週間に起こったエルサレムでの出来事が、これから先に学ぶルカによる福音書の個所に描かれます。きょうはその発端として、いよいよエルサレムへ入られるイエス・キリストが描かれます。すでに学んできたようにルカによる福音書は9章51節からエルサレムに向かって旅を進めるキリストを描いてきました。きょうはその旅の終着点であるエルサレムへの到着の場面です。
イエス・キリストはこのエルサレムの入城に際して、特別な準備を弟子たちに命じました。それは、このエルサレム入りに際して、イエスの言葉の通りにろばの子を用意するようにというものでした。
なぜ馬ではなくろばでなければならないのか、それには隠された理由がありました。それはろばに乗った王の入城の場面は、預言者ゼカリヤによってこう描かれているからです。
「娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。 見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)
この預言書に登場する王は、軍馬を絶って、あえてろばの子に乗ってやってくる平和を告げる王なのです。
イエス・キリストはこの預言の言葉の通り、軍馬ではなくろばの子に乗って、平和の王としてのご自身をお示しになっていらっしゃるのです。しかも、イエス・キリストがもたらしてくださる平和とは、罪からの解放と神との和解から来る平和です。
イエス・キリストはここに至るまでに何度も弟子たちにご自分が受けようとしている苦難についてお語りになってきました。その十字架の上での苦難は、後に書かれた新約聖書の説明によれば、わたしたちが受けるべき罪の罰を、身代わりになって受けてくださった苦難です。この十字架での苦しみのためにイエス・キリストはエルサレムへ入ろうとされていらっしゃるのです。そして、その十字架での死を通して、神と罪人であるわたしたちの間に平和をもたらそうとなさっていらっしゃるのです。
けれども、弟子たちがその深い意味をこの時どこまで悟っていたかはわかりません。来るべきご自分の苦難をたびたび予告して来られたイエス・キリストの言葉は、弟子たちには理解できなかったと、今までルカ福音書は描いてきました(9:45、18:34)。同じ出来事を描いたヨハネによる福音書12章16節には「弟子たちには最初これらのことが分からなかった」とあからさまに記しています。
ですから、イエスを迎える弟子たちが口々に「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」と奇しくも叫んだ言葉も、すべてのことが明らかになるまでは、自分たちが言ったことの意味の深さを悟ることはできなかったことでしょう。
この弟子たちの叫び声は、ファリサイ派の人々には不快なものに聞こえました。ファリサイ派の人たちにも、イエス・キリストのエルサレム入城のほんとうの意味が分からなかったからです。彼らが心配したのは、弟子たちがイエス・キリストを政治的な王として擁立し、ユダヤを混乱に巻き込もうと企てているのではないかということでした。
「先生、お弟子たちを叱ってください」
しかし、たとえ弟子たちの口をふさいだとしても、平和の王であるイエス・キリストがやってこられたことを覆い隠すことはできません。イエス・キリストはおっしゃいます。
「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
人々はこのとき誰一人としてイエス・キリストが真の意味で平和の王としてエルサレムにやってこられたことを悟ってはいなかったことでしょう。都エルサレムが近づくに連れて、そのエルサレムのために涙されるイエス・キリストの姿が描かれます。
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…。しかし今は、それがお前には見えない。」
このあと40年もしないうちに、エルサレムはローマ軍の包囲にあって破壊されてしまいます。まことにイエス・キリストがもたらしてくださる平和への道を彼らがわきまえていたなら、あるいは戦争に巻き込まれるようなことはなかったかもしれません。神が和解と平和をもたらすためにエルサレムを訪れて下さっているにもかかわらず、人間の心の罪深さがそれを拒んでいるのです。そして、まさにその心の頑なさが、自分たちの上に災いをもたらしているのです。その愚かさは当時の人々だけではありません。
今なお恵みの時として、わたしたちにまことの平和をもたらすために神はわたしたちのもとに訪れてくださっているのです。