2010年7月15日(木)主が帰ってくるまで(ルカ19:11-27)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
新約聖書の一番最後の書物『ヨハネの黙示録』のおしまいは、「然り、わたしはすぐに来る。」というイエス・キリストの言葉に続いて、「アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」と結ばれています。キリスト教会は今もなお「わたしはすぐに来る」とおっしゃる再臨のイエス・キリストを待ち望んでいます。
きょう取り上げようとしている聖書の個所も、この神の国の実現とキリストの再臨とに関連して、再臨の主イエス・キリストを待ち望むわたしたちの生き方が問われています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 19章11節〜27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」
今日取り上げるお話は「ムナのたとえ話」として知られる有名なたとえ話です。これと大変よく似たたとえ話がマタイによる福音書の25章14節以下にも記されています。そちらの方は僕に預けたお金の単位がタラントンであったことから、「タラントンのたとえ」と呼ばれています。ムナもタラントンもギリシアの通貨の単位ですが、ムナはタラントンの60分の1にあたります。しかし、それでも一ムナは当時の日雇い労働者の二百日分の賃金に相当しますから、決して話の規模が小さいというわけではありません。
ルカによる福音書の「ムナのたとえ」がマタイによる福音書の「タラントンのたとえ」と違っているのは僕たちに預けたお金の大きさの違いというばかりではありません。
ルカ福音書自身がはっきりと記しているように、イエス・キリストがこの「ムナのたとえ」をお語りになったのは、「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるもの」と思い違いをしていたからです。
人々は、イエス・キリストがエルサレムに入られると、きっと何かが起こるに違いという期待を持っていたようです。それはすぐにも現れるに違いないという神の国への期待でもありました。
そういう熱狂的な期待に対して、今がどういう時代なのか、そして、その時代をどう生きるべきなのか、そのことをたとえを通してお語りになっているのです。
もちろん、マタイによる福音書の「タラントンのたとえ」も再臨のキリストを語っていないわけではありません。しかし、ルカによる福音書の「ムナのたとえ」では、その点が一層鮮明に描かれています。
というのも「タラントンのたとえ」で僕たちにお金を託すのは、旅に出る金持ちにすぎませんが、「ムナのたとえ」では、王位を受けようと旅に出る高貴な家柄の人として描かれます。王として再臨されるキリストの姿を重ね合わせているところから、このたとえ話の意図は明らかです。
僕たちが王位を受ける長旅に出た主人を待ち望むように、再臨のキリストを待ち望むクリスチャンが、この地上でどう生きるべきかが、このたとえ話の中心テーマです。
十人の僕にお金を託して出かけたのですから、報告も十人からの報告があって当然ですが、代表的な三人の報告だけが記されています。最初の二人はそれぞれ1ムナから10ムナを儲けた人、1ムナから5ムナを儲けた人です。儲けた金額は異なりますが、それぞれに力の応じた褒美が与えられます。それはこの二人がごく小さな事に忠実だったからです。能力は一人一人異なるのですから、結果が違うのは当然です。しかし、主人がほめているは結果ではなく、小さな事に対してさえも忠実に主人のために仕えようとする姿勢です。
三番目の人が叱責を受けたのは、預かったものを布に包んでしまっておいたから、という理由だけではありません。そうではなく、言葉と行動とがちぐはぐだからです。
この人は一ムナを布にくるんでしまって置いた言い訳を、預けないものを取り立てる主人の恐ろしさのせいにします。しかし、ほんとうに主人を恐れているのであれば、不用意に布にくるんでおくだけで責任を果たしたとは言えないはずです。ほんとうに過酷な主人を恐れているのなら、何よりも安全を考慮すべきはずですし、わずかな利息でも付けてお金を返そうとするはずです。
この人の言っていることとやっていることとはちぐはぐで、とても忠実な態度とは言えません。主人はこの僕のそのようないい加減な態度を指摘しているのです。
終わりの日にクリスチャンが待ち望んでいるのは、恵みと慈しみに富んだ王なるキリストです。この王なるキリストを覚えて、小さなことにも忠実に生きる態度こそ、キリストがわたしたちに求めておられることです。
さて、このたとえ話には、「タラントンのたとえ」にはない、もう一つの要素があります。それはこの高貴な人が王位に就くことを望まない住人たちの話です。
「わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」という言葉でたとえ話が締めくくられるのは大変ショッキングです。もちろん、わたしたちの手で反キリスト教の人々を撃ち殺すことが命じられているわけではありません。
しかし、この言葉をできるだけ薄めて弱めてしまうということもできません。この言葉を耳にした一人一人が、キリストを王として生きようとしているのか、それとも自分が自分自身の王となって生きようとしているのか、そのことが真摯に問われているのだと思います。