2010年7月8日(木)失われた者を探して救うため(ルカ19:1-10)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「手遅れ」という言葉があります。なすべき時期を逃してしまうことです。「もう手遅れです」と言われると、ほんとうにやるせない気持ちになってしまいます。
もっとも人間の目には手遅れであることがたくさんあっても、神の目には今こそその時だということがあるように思います。人間の秤で測って、手遅れだと諦めてしまうのではななく、神の与えてくださる恵みの時をしっかりと見極める力を持ち続けたいと思います。
きょう取り上げる徴税人のザアカイの話はその神の恵みの時を考えさせられます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 19章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
きょうの個所に登場するのは徴税人の頭であるザアカイです。「徴税人の頭」という言葉は後にも先にもここにしか出てこない言葉です。ユダヤ人たちの間ではただの「徴税人」でさえ神の国に入る資格がない「罪人」の仲間と考えられていたのですから、その徴税人の頭ともなれば、どれほどの悪評判を立てられていたかは容易に想像がつきます。
イエス・キリストの評判を耳にして、キリストがエリコの町にやってきたこのチャンスを逃すまいと懸命になるザアカイに、親切にも道をあけてくれる人は誰もいません。
相手が罪人のザアカイだったからなのか、あるいは、群衆もイエスを一目見ようとしてザアカイのことなど構っていられなかったのか、ザアカイにとってはどっちでもよいことです。ザアカイにとって肝心なのは、イエス・キリストに会いたいという思いです。大の大人が木に登ってまでその思いを実現しようとするのですから、これをただの好奇心が高じた大人げない振舞いとして片づけてしまうわけにはいかないでしょう。
先週学んだ盲人が救いを求めて、通りすがるイエスに何度も憐れみを乞うたように、ザアカイにもイエス・キリストに期待するものがあったのでしょう。
一見、この場面の主導権は救いを求めて率先して動くザアカイにあるように見えますが、実はイエス・キリストこそ、この場面を導くお方です。
木の上から見下ろすザアカイに声をおかけになったのは、ほかならぬイエス・キリストです。しかも、イエス・キリストはこうおっしゃいました。
「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
正確には「泊まりたい」ではなく「泊まらなければならない」「必ず泊まることになっている」という表現です。ルカ福音書の中にはしばしばこの「必ずすることになっている」「しなければならない」という表現が出てきます(2:49、4:43、9:22、13:33、17:25、22:37、24:7、24:44)。それらは神の御計画から生じる必然性を表した言い方です。つまり、イエス・キリストは偶然にザアカイに出会って、その家に泊まりに行くのではありません。
あとでイエス・キリストがおっしゃっているように「人の子は、失われたものを捜して救うために来たので」す。その御計画を実現するために、イエス・キリストはザアカイに向かって「今日はあなたの家に泊まらなければならない」とおっしゃったのです。
わたしたちには偶然にしか見えないことの中に、主の深い御配慮と御計画とがあるのです。わたしたちが自覚するはるか前に、主イエス・キリストはわたしたちの救いのためにすべてを整えてくださっているのです。
ザアカイはそのイエス・キリストの呼びかけに信仰をもって応えました。
「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」とあります。この喜びは、会いたかったイエスが自分の家に泊まりに来るという、ただそれだけの喜びではありません。ザアカイの生き方そのものを変えてしまうほどの喜びだったのです。
ザアカイは決心して言いました。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
第一に、ザアカイは貧しい人々に対して心が向かい、具体的に助けようとする思いが与えられました。イエス・キリストと出会って、初めて他者への関心が芽生えたのです。そして、自分の財産を隣人愛のために使うという、財産の正しい使い方に目覚めたのです。
第二に、ザアカイは自発的に悔い改める思いを与えられ、その気持ちを進んで行動に表そうとしました。
律法の規定では、不正に手に入れた財産は二倍にして返すことが求められていました。けれども、ザアカイはそれをさらに倍にして四倍にして返すことを約束しました。
ザアカイは救われたい一心でそんな約束をしたのではありません。むしろ、イエス・キリストと出会う喜びが、ザアカイをそのように導いたのです。救われるために、ではなく、イエスに出会って救われたという確信が人を変えるのです。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」
ルカ福音書の中にはしばしば、この「今日」というテーマが繰り返されます。
イエス・キリストがお生まれになったとき、天のみ使いは羊飼いたちに「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(2:11)と告げました。また、イエス・キリストはナザレの会堂で「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(4:21)とおっしゃいました。さらにまた、十字架の上でイエス・キリストは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23:43)と宣言されました。
イエス・キリストとともにある今日こそ、恵みの時、救いの日なのです。