2010年7月1日(木)何をして欲しいのか?(ルカ18:35-43)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

イエス・キリストは弟子たちに祈りについてお教えになったときに、天の父なる神は、わたしたちが願う前からわたしたちの必要をご存じであるとおっしゃいました(マタイ6:8)。返ってわたしたち人間の方が、自分にとって本当に必要なものがなんであるのか、知らないことが多いように思います。特に自分の救いにとってイエス・キリストが必要であることは、今も昔も誰もがそう思うというわけではありません。
きょうの話に登場する一人の目の見えない男は、肉の目こそ見えませんでしたが、イエス・キリストが自分の救いにとって必要なお方であることを誰よりもはっきりと見ていました。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 18章35節〜43節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

きょうの話の舞台はエルサレムからほど遠くないエリコという町の近くです。イエス・キリストはエルサレムを目指して旅を続けてきました。先週の個所にも出てきましたが、イエス・キリストがエルサレムを目指して旅を続けられたのは十字架の苦しみと復活を通して実現される救いの業を成し遂げるためです。その救いの業が成し遂げられるエルサレムまで、あとわずかな場所できょうの出来事は起こります。

エリコの町には来週取り上げようとしている徴税人の頭ザアカイがいたことでもわかるように、そこは交通の要所でした。つまり税を取り立てるには人通りも多く都合のよい場所だったのでしょう。そういう場所ですから、物乞いをする者たちにも都合がよい場所だったと思われます。きょうの登場人物である目の見えない男も、他の物乞いたちに交じって、そこにいたのでしょう。

ある日のこと、いつものように道端に座っていると、いつもとは違うただならないざわめきを耳にします。目が見えない分だけ、耳は研ぎ澄まされています。人々のざわめきの原因が、ナザレのイエスが今まさに通り過ぎようとしていたからであると知らされると、この男は「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び出します。

イエス・キリストのうわさをすでに耳にしていたのか、あるいは通りすがりの人々のざわめきから漏れ聞こえるわずかな情報からかはわかりませんが、この目の見えない男は、イエス・キリストが自分の救いにとって必要なお方であることを誰よりも敏感に感じたのでした。しかし、物乞いをしているような自分が、イエス・キリストの目に留まるほど価値ある人間とは思えません。そうであればこそ、「わたしを憐れんでください」としか、叫びようがないのです。主の憐れみだけがたよりです。

考えようによっては、ルカによる福音書18章に登場する様々な人々の誰よりも、救い主キリストを必要とする自分自身を知っていたと言えるかもしれません。

先週取り上げた個所には、永遠の命を求めながらも、イエス・キリストのもとを離れて行ってしまった金持ちの話が出てきました。その金持ちの議員は救いの必要性を知っていながらも、「わたしに従って来なさい」とおっしゃるイエス・キリストに従うことができませんでした。どうしても自分にとってキリストに従うことが必要だとは確信できなかったのでしょう。手にしている財産と比べた時に、キリストもとを離れざるを得ない気持ちになってしまったのです。

それを見ていた弟子たちは、と言えば、確かに「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言えるだけの自信がありました(18:28)。しかし、それだけに、そのすぐ後で語られるキリストの受難の予告と復活の言葉を理解することができなかったのです。

もちろん、目の見えないこの男は、キリストの受難の予告を聞いたわけではありませんから、聞けば弟子たちと同じように理解できなかったかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、この男が一つだけわかっていたことは、神の憐れみによる以外に救いはないという真理です。

そういう意味では、イエス・キリストがお語りになった「ファリサイ派の人と徴税人の祈りのたとえ話」(18:9-14)に登場する徴税人と同じです。あのたとえ話に登場する徴税人は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」としか祈るほかはなかったのです。けれども、その祈りこそ聞きあげられたのでした。
あの徴税人はたとえ話の登場人物でしたが、きょうの話に登場するのは架空の人物ではありません。現実に自分の救いを神の憐れみに求める一人の人なのです。人々が叱りつけて黙らせようとしても、その思いをおしとどまらせることはできなかったのです。返ってますます「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのでした。

ところで、先に行く人々はなぜ叱りつけてまでこの男を黙らせようとしたのでしょうか。少なくとも、弟子たちはイエス・キリストがエルサレムへ向かって旅を急いでいたことはわかっていました。しかし、エルサレムで起ころうとしている受難と復活については、先週の個所にもあった通り、その言っている意味がわからなかったのです。全人類の救いのためにエルサレムに向かうイエス・キリストを思って、その行く道を妨げる自分勝手なこの男を叱りつけているというわけではなさそうです。むしろ、自分たちが勝手に思い描いた救いをキリストがエルサレムで実現してくださると期待するあまり、この男のしつこい願いがうるさく感じられたのでしょう。彼らの方こそ自分勝手です。「神の国はこのような者たちのものである」(18:16)とおっしゃったイエス・キリストのお言葉さえもう頭に残っていないようです。
あるいは、たかが物乞いの願いとさげすんだのかもしれません。そうだとすれば、まさに「ファリサイ派の人と徴税人の祈りのたとえ話」に登場するファリサイ派の人と同じです。

さて、イエス・キリストはこの男に尋ねます。

「何をしてほしいのか」

もし、同じことを尋ねたのが他の人物であれば、この男はいつものように、「お金を恵んでください」と答えたでしょう。しかし、イエス・キリストに対してはそうは答えなかったのです。

「主よ、目が見えるようになりたいのです」

ここにこの人のイエスに対する信仰を見ることができるのです。だからこそ、イエス・キリストもこの人をお癒しになって「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と宣言されたのです。