2010年6月24日(木)神にはできる(ルカ18:18-34)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「永遠の命」という問題が、単にいつまでも死なないという意味であるとするなら、これほど恐ろしい話はありません。幸福の中にいつまでも生きてこその「永遠の命」です。
聖書が語る「永遠の命」というのは、この罪の世界が新しくされ、神の国が完成した時に関わる命の問題です。そうした世界に生きるには、この地上で何をなすべきかという真面目な話です。
きょう取り上げる箇所には、こうした真面目な求道心からイエスのもとを訪ねた一人の男が登場します。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 18章18節〜34節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」
イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
きょうの話の舞台に登場するのは、「議員」であると言われます。この言葉がユダヤ最高法院の「議員」を意味するかどうかは断定できませんが、指導的立場の人間であったことには間違いありません。
しかも、この人はイエスを試そうとして近づいてきたのではありません(10:25と比較)。むしろ、指導的立場でありながらも、なお道を求める思いを持ち続けているのですから、キリストに近づくその動機はとても純粋なように見受けられます。その心に抱いていた疑問はこうでした。
「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」
ここで言う「永遠の命を受け継ぐ」とは、イエス・キリストが後で弟子たちに語っているように「神の国に入る」というのと同じ意味です。
前回学んだ個所でイエス・キリストは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃいましたが、この議員はあたかもそれを受けて「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねているかのようです。
この質問に対するイエス・キリストのお答えは、ユダヤ人にとってとても馴染みのあるものでした。モーセの十戒のうち隣人に対して守るべき掟を繰り返しただけのこの答えに、この真面目な男は拍子抜けしてしまったかもしれません。しかし、なおも食い下がってイエス・キリストから新しい教えを聞き出そうとします。なぜなら、イエス・キリストの答えに満足できる自分であるなら、最初からイエスのもとへと来ることはなかったからです。
これに対してイエス・キリストは、持ち物すべてを売り払って貧しい人々に施すことと、ご自分に従うこととをお命じになりました。
もちろん、この場合重要なのは、イエス・キリストに完全な服従をささげるということです。持ち物すべてを売り払って貧しい人々に施すことは、その完全な服従をあかしするものです。
さて、これを聞いた男はとても悲しい思いになりました。大変な大金持ちだったからだとルカは報告しています。
確かに守らなければならないものを持っていればいるほど、自分を明け渡すことは難しいものです。それが財産であれ、名誉であれ、権力であれ、持っていればいるほど、自分をキリストに明け渡すことが困難です。
けれども、この人にとってできなかったのは、全財産を売り払うということだけではありませんでした。そうゆう何もできない自分を認めて、キリストに救いを求めることができなかったのです。
イエス・キリストがこの男に気が付いてほしいと願っていたことは、まさにこのことです。それは「何をすれば」という発想から解放されて、何もできない自分を認めて、ただ神の恵みにより頼むことです。
イエス・キリストは、ルカ福音書の18章の前半で、自分の罪の大きさになすすべもなく、胸を打ちたたいて罪の赦しを神に請う徴税人のたとえ話をしました。また、父親を信頼する幼子のように、ただ神だけを頼る者が神の国に入るのだと教えられました。イエス・キリストはこの男にもそのような信仰を求めていらっしゃったのです。
この金持ちの様子を見て、イエス・キリストはおっしゃいました。
「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
これを聞いた人々は即座に言いました。「それでは、だれが救われるのだろうか」
確かにらくだを針の穴に通すことは人間には不可能なことです。神の祝福によって富と名誉とを手にしたと思われるこの人でさえ、神の国に入るのが不可能だと宣告されてしまったのだとすれば、他の者が救われる希望はもっとないように思えてしまいます。
しかし、イエス・キリストはこれに答えてはっきりとおっしゃいます。
「人間にはできないことも、神にはできる」
この問答のあとで、イエス・キリストはメシアとしてのご自分の苦難について弟子たちに再び語り聞かせています。
そうです。イエス・キリストが人間にはできない罪の償いを十字架の上で果たしてくださるのです。このキリストに、何もできない自分を明け渡す時に、人間にとっての不可能が、可能になるのです。