2010年5月27日(木)神の国と終末への備え(ルカ17:20-37)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
世の終わりや世界の滅亡といった話は、ときどき人々の話題の中心を占めるときがあります。それは単なる興味本位というよりは、時代の不安さを反映しているようにも思われます。このままでは世界が滅んでしまうのではないか、という恐れは、人々を真面目な生活へと引き戻します。
もっとも、世の終わりへの関心が異常なまでに熱気を帯びてくると、逆に今生きている意味が分からなくなって、日常生活を放棄してしまうということもあり得ます。世の終わりが間近に迫っているのなら、あくせく働いても味がないと考えてしまうからです。
しかし、反対に不安な時代が過ぎ去ると、世の終わりなど永遠に来ないのではないかと思うほど、すっかり話題にも上らなくなってしまいます。
きょう取り上げようとしている個所は、神の国と終末にかかわるイエス・キリストの教えです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 17章20節〜37節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」
そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」
きょう取り上げた個所は、聴き手が誰であるか、という観点から区別すると、二つに分けて考えることができます。最初の二つの節がファリサイ派の人々の質問に答えたイエスの言葉、残りの部分が弟子たちに向けて語られたイエスの教えです。どちらも神の国の到来と終末にかかわる内容です。
話のきっかけは、ファリサイ派の人々が尋ねた質問、「神の国はいつ来るのか」という質問にあります。
「神の国」というのは、王として神が天地万物を支配することです。王である神の支配は天地創造以来、片時も絶えることなく続いているのですから、その意味では神の国が消えているわけではありません。
しかし、ファリサイ派の人々が問題としているのは、そういう意味での神の国ではありません。具体的には、イスラエルという国の回復です。イエス・キリストの時代の後にユダヤ人の独立を求めて、ローマとの間で戦争がおこりました。その戦争は、その当時のユダヤ人が神の国をどのように期待していたかを最もよく物語っています。もちろん、それは単にイスラエル民族の政治的な独立ということではなく、イスラエル民族の独立を通して神の支配が具体化するという宗教的な理想でした。
ファリサイ派の人々の質問に出てくる「神の国」にはそういった意味が込められています。
しかし、イエス・キリストはそれに対して「神の国は、見える形では来ない」とお答えになりました。そうではなく「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と指摘されました。
すでにイエス・キリストはルカによる福音書11章20節で「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とお語りになっています。言いかえれば、イエス・キリストと共に神の国はすでにわたしたちの間にやってきているのです。イエス・キリストの教えと御業の中に、王としての神の確かな支配が始まっているのです。
このイエス・キリストを脇へ置いて、他のところに神の国の到来を探そうとしているところに、ファリサイ派の人々の大きな思い違いがあるのです。信仰の目をもって見さえすれば、イエス・キリストの教えと働きの中に神の愛の支配を見ることができるのです。
さて、イエス・キリストは弟子たちに対しても注意を与えています。確かにイエス・キリストと共に神の国がやってきたのだとすれば、世の終わりもまた近いと考えるのは、当時の弟子たちにとっては当然の考えです。
しかし、イエス・キリストは開口一番、その期待を打ち砕いています。
「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」
ここでいう「人の子」というのは終わりの時に再びやってくるメシアのことです。再臨のイエス・キリストによって始まる日々の一日だけでも見たいと思っても、その願いがかなわないのですから、行き過ぎた終末への期待が戒められています。
「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」と言う人々の言葉に踊らされてはいけないのです。むしろ、「人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」というメシアの働きの順序を心にとめなければなりません。
もちろん、ルカによる福音書が書かれた時には、すでにイエス・キリストは十字架での苦難を経ているのですから、ルカの時代は弟子たちがこの言葉を聴いた時代よりももっと終末のときは近いと言えるかもしれません。しかし、それでもなお過度な期待に踊らされないように注意が必要なのです。
けれども、それにもまして注意が必要なのは、それとは正反対の態度です。イエス・キリストはノアの時代やロトの時代を引き合いに出しました。ノアの時代の人々もロトの時代の人々も食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていました。ごく普通の日常生活の中に暮らしていました。もちろん、イエス・キリストは日常生活そのものを否定しているわけではありません。そうではなく、日常生活の中に埋もれてしまって、すっかり終末への備えを忘れているところに問題があったのです。
終末のことに対して、過敏になりすぎて落ち着いた生活を忘れてしまうのも問題ですが、逆に日常生活の中ですっかり世の終わりのことを忘れてしまうのも大きな過ちなのです。