2010年5月20日(木)サマリア人の信仰(ルカ17:11-19)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「恩知らず」という日本語があります。恩を受けてもそれに報いようとしないこと、また、そういう人を指して使う言葉です。もっとも、恩というのは必ずしも相応に報いることができるものではありません。特に神から下される恵みや慈しみに対しては、ただ神への感謝と従順をもってするよりほかはありません。
しかし、その感謝と従順をもって神の恵みに応えることすら忘れてしまうのが人間の弱さです。
きょう取り上げる個所には感謝を伴った信仰がイエス・キリストによって賞賛されています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 17章11節〜19節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

きょう取り上げる出来事はエルサレムに上る途中の出来事です。ルカによる福音書には9章51節以来、エルサレムに向かうイエス・キリストの姿がところどころに描かれてきました(10:38、13:22,33)。ルカによる福音書の9章には、イエスを「神のメシアである」とする有名なペトロの信仰告白と、それに続いてイエスご自身がメシアとは「苦難と復活」のメシアであるという御自分のメシアとしての使命が語られてていました。そのメシアとしての使命が果たされるエルサレムへ向かっての旅がここでも描き続けられています。
ただ、きょうの個所では、まだその旅はサマリアとガリラヤの間を通った辺りだと描かれます。その理由は定かではありませんが、エルサレムへ向かう通常の道ではなかったようです。わき道の町や村に立ち寄りながらエルサレムへの旅を続けられたのでしょう。そういう回り道の旅であったからこそ、きょうの話に登場するサマリア人にも出会ったのです。

さて、きょうの出来事に登場するのは十人の重い皮膚病を患った人たちの集団です。しかも、そのうちの一人はサマリア人でした。
「重い皮膚病」であり、なおかつ「サマリア人」である、というのは、当時のユダヤ人社会から見れば二重の意味で忌み嫌われていた存在であると言うことができます。

重い皮膚病を患う者として、彼らは12節に記される通り「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて」何かを言わなければならないほど、人々から隔離されていたと言うことです。
旧約聖書レビ記13章45節以下にはこの病を患った人についてこう規定しています。

「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」

この十人の病人たちがどれほど悲痛な思いで声を張り上げたことか、このレビ記の規定と照らし合わせるときに、その悲惨な状況を容易に想像することができると思います。

そして、きょうの出来事の中心人物となるのは、そのうちの一人、サマリア人ですが、サマリア人というのはユダヤ人にとっては、かかわりを持ちたくない汚れた相手でした(ヨハネ4:9)。なぜなら、サマリア人は純粋なユダヤ人ではなく、異民族との混血だったからです。その上、宗教的には同じ神を信じているとは言いながら、モーセの五書だけをよりどころとし、エルサレムではなくゲリジム山で礼拝を守っていたからです。

さて、このサマリア人を含む十人の病人に、イエス・キリストはおっしゃいました。

「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」

これは言うまでもなく、律法の規定に従って、この重い皮膚病からの完全な清めを宣言してもらうためです。そうおっしゃるイエス・キリストの言葉に従って、すぐさま行動を起こした十人の信仰はそれだけでも賞賛に値するかもしれません。なぜなら、その時点でイエス・キリストは特別に手を置いて目に見える形で癒したというわけではなかったからです。それは困った時の藁をもつかむような信仰にすぎない、と過小評価してしまうことはできないでしょう。
以前、ルカ福音書の5章に出てきた同じ病の癒しの時には、イエス・キリスト自ら手を差し伸べてその人の体に触れ「清くなれ」とおっしゃいました。そして、それと同時にたちまち清くなったと記されています(5:13)。
ところが、今度の場合は何の所作があるわけでもなく、まだ、何の兆候も表れない時点で、この十人の人たちは、ただイエス・キリストの言葉を権威ある言葉として受け入れたのです。それは信仰がなければできることではありません。

さて、イエスの言葉に従って出かけた十人の身に、道の途上で明らかな変化が起こりました。祭司のもとに行く途中で病が癒され、清められたのです。そこでそのうちの一人、サマリア人だけがイエスに感謝を言い表すためにイエスのもとに戻ってきました。
他の九人は癒されたのに気がつかなかったというわけではないでしょう。ただ、サマリア人と違って、祭司のところへ行って癒されたことを証明してもらうことを最優先にしたということです。それに対して、このサマリア人はそうではありませんでした。祭司のところへ行くことを先延ばしにしてでも、まずは感謝を言い表したかったのです。
しかもこのサマリア人には、自分の癒しにイエス・キリストが深くかかわっているとのはっきりした自覚がありました。だからこそイエス・キリストのところへ戻ってきて、ひれ伏して感謝したのです。

イエス・キリストはこの戻ってきたサマリア人におっしゃいました。

「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

他の九人には信仰がなかったとは言えません。しかし、このサマリア人には他の九人にはない信仰があったのです。それはイエス・キリストに対する感謝と信頼です。神の救いの御業とイエス・キリストとをはっきりと結び付けて考えることができる信仰です。