2010年5月13日(木)イエスの弟子に求められるもの(ルカ17:1-10)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

クリスチャンとして、一生涯イエス・キリストに従っていくことは決して易しいことではありません。しかし、あまりにも難しく考え過ぎてしまえば、誰もクリスチャンであり続けることはできません。
イエス・キリストご自身、弟子としての覚悟について今まで何度か弟子たちにお語りになってきました。また弟子に求められている事柄について折に触れて教えてきました。その全ての点で百点満点をとることはできないとしても、すべての点で成長を願うことはできるはずです。キリストの弟子として求められていることがなんであるのか、またどのようにその求めに応じていくのか、きょうの箇所から学びたいと思います。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 17章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

イエス・キリストは開口一番、「つまずきは避けられない」とおっしゃいます。
「つまずき」と訳されているギリシア語の「スカンダロン」という言葉は後に英語のスキャンダルの語源になりますが、ここでの意味はいわゆる「醜聞」とか「不祥事」という意味ではありません。
この言葉のもともとの意味は「罠」という意味です。罠にかかればつまずきます。そこから転じて、比喩的な意味で人をつまずかせるものを指すようになりました。特にここでは三節とのつながりから考えると、人を罪へと誘うものという意味です。
つまり罪への誘惑が来ることは避けられないとイエス・キリストはおっしゃるのです。その事自体、わたしたちは心して耳を傾けておくべき大切な事柄です。何か誘惑にあったとき、それを思いがけないことのように思ってはいけないのです。クリスチャンになったのだから、罪への誘惑はもはやなくなってしまったと勘違いしてはいけません。
むしろ、主イエス・キリストが主の祈りの中でおっしゃっているように「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と絶えず祈る必要があるのです。罪への誘惑がやってくることは避けられないとしても、罪への誘惑にまんまと引っかかってしまわないように、絶えず祈って備えることが大切です。また、罪へと誘う者たちから助け出してくださいと、神に助けを願うことが求められています。

さて、罪への誘惑がやってくることは避けられないことですが、それ以上に問題なのは、罪への誘惑をもたらしてしまうことです。主イエス・キリストは「つまずきをもたらす者は不幸だ」とおっしゃいます。しかもイエス・キリストは小さな者を罪へと誘うことの問題の大きさ、深刻さを指摘していらっしゃいます。

ところで、罪の誘惑をもたらす者とは誰のことでしょう。教会の外部の人のことを言っているのでしょうか。この罪に満ちた世界に罪の誘惑があるのは当たり前なのですから、その不幸について今さらとりたてていう必要もないでしょう。むしろ、罪の誘惑をもたらすものとは、教会内部の問題のことでしょう。
しかし、クリスチャンがクリスチャンに対してわざわざ罪を犯すようにと誘うことはありえないことでしょう。いえ、ありえるとしても、そんな明白な誘惑に簡単に引っかかってしまうということは少ないでしょう。
あるとすれば、本人も自覚がないままに、他人を罪に誘ってしまうという場合でしょう。
たとえば、聖書にはお酒に酔いしれてはいけないとは書いてありますが(エフェソ5:18)、お酒を飲んではいけないとは書いてはありません。だからといって、信仰に入って間もない人たちの前で酒宴開いて、その人たちにお酒をすすめたらどうなるでしょう。その人たちは信仰の先輩たちのそうした振る舞いをみて、どんなにお酒を飲んでも許されるのだと誤った道に踏みいってしまうかもしれません。それ自体が罪ではないことであったとしても、それが小さな者たちを罪へと導いてしまう危険は大いにあるのです。

ところで、イエス・キリストはそうおっしゃったあとで、「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」とおっしゃいます。

罪への誘惑がくることは避けられないのですから、「もし兄弟が罪を犯したら赦してやりなさい」とはおっしゃいません。また、罪への誘惑をもたらす者こそ災いなのだから、誘惑に引っかかって罪を犯した兄弟は赦してやりなさい、ともおっしゃいません。
まず、イエス・キリストが求めていらっしゃることは、罪は罪としてはっきりと戒めることです。その点を曖昧にしてはならないのです。
しかし、罪を罪として戒めると言うことは、決してその人を赦さないということではありません。真に悔い改めている者を赦しなさいと、寛容な態度を求めていらっしゃいます。それがたとえ一日に七回繰り返したとしても寛容でなければならないのです。

罪を戒めることと罪人を赦すこととは一見両立しないように思われます。まして、繰り返し罪を犯す者に対しては、堪忍袋にも限度があると思ってしまいがちです。それでも、キリストの弟子として、罪を戒めることとと赦すこととを両立させなければならないのです。

さて、その教えを聞いた弟子たちは「信仰を増してください」と願います。なるほど、人をつまずかせないことも、罪を勇気をもって戒めることも、また何度でも罪を赦すことも、信仰が中途半端ではできるようなものではありません。弟子たちの願いはもっともなことだと思われます。
しかし、イエス・キリストはその願いに対して、こうお答えになりました。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」

もちろん、イエス・キリストがおっしゃっていることは、どんな無謀なことでも、からし種一粒の小さな信仰さえあれば、何でも叶えられるということではありません。兄弟をつまずかせないことも、また兄弟の罪を戒め、兄弟を赦すことも、特別な信仰があって初めてできることではないということです。小さな信仰だとしても、可能なことなのです。そのようにイエス・キリストは弟子たちを励ましていらっしゃるのです。
むしろ私たちが気を付けるべき点は、信仰の多い少ないという問題ではなく、僕として神に仕える姿勢があるかないかという点です。誰かの罪を戒めるときも、誰かの罪を赦すときも、支配者のように思い上がった気持ちでいてはならないのです。神の僕として、謙虚な気持ちで、神の御心に仕えることが大切なのです。