2010年5月6日(木)生きているときになすべきこと(ルカ16:19-31)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「人生は一度きりだから、悔いのない人生を」という言葉をよく耳にします。「悔いのない人生」とは何か、というのは人によって、その中身の捉え方はずいぶん違うようです。
「人生は一度きりだから、思いっきり楽しみたい」と言い換える人もいます。あるいは「人生一度きりだから、勝手好き放題したい」と言い換える人もいます。さすがにそれではまずかろうというので、「人生一度きりだから、他人にさえ迷惑がかからないように気をつけて、何でも楽しみたい」と控えめに言う人もいます。
あるいは「人生は一度きりだから、より善く生きたい」という人もいます。
どういう言い方にせよ、どう生きるかを真剣に考えることは大切なことだと思いますし、漫然と生きていてはいけないのだと思います。

きょう取り上げようとしているたとえ話は、わたしたちがどう生きるべきなのか、そのことを深く考えさせてくれます。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 16章19節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

きょう取り上げたたとえ話は「金持ちとラザロのたとえ話」と呼ばれる有名なたとえ話です。たとえ話の登場人物に名前が与えられているのは、他のたとえ話にはない特徴です。だからと言って、このたとえ話が実話に基づいていると考える必要はありません。「ラザロ」という名前はヘブライ語の「エルアザル」から来た名前で、「神は助け」という意味ですから、象徴的な意味を込めた名前ということでしょう。

さて、このたとえ話には対照的な二人の人物が登場します。ひとりは金持ちで、いつも最上の着物を身にまとい、毎日ぜいたく三昧に暮らしていました。もう一人の人物は貧しい人で、体はできものだらけだったのです。しかも、この二人はお互い知らない世界に生きていたのではなく、このラザロは金持ちの門前で、食卓からこぼれ落ちるもので腹を満たそうとするほどだったのです。
やがて二人には死が訪れます。ラザロは天上の世界の宴会に迎え入れられます。他方、金持ちはというと、ラザロのいる場所とははるかに隔たった陰府の世界で苦しみ悶えます。
もちろん、これはたとえ話ですから、死後の世界の様子をこと細かく描くことが目的ではありません。それ以上の描写に心を奪われないように注意が肝心です。

さて、イエス・キリストはこのたとえ話を通して、何を伝えたかったのでしょうか。金持ちであることを否定して、皆がラザロのような貧しくて物乞いのような生き方をするようにと望まれたのでしょうか。そうではないでしょう。
このラザロは自分から好んで貧乏人になり、自分から進んで全身できものだらけとなったわけではありません。ただ、その名が象徴しているように、ラザロは貧しく悲惨な境遇の中にあっても神を助けとして生きてきた人物ということでしょう。
このたとえ話は、地上では苦しい境遇の中にあっても、神を助けと頼む人には、永遠の神の国での希望があることを教えています。それはそれで、ラザロと同じ境遇にある聴き手にとっては慰めと希望に満ちたたとえ話です。

しかし、このたとえ話から学ぶべきことは、むしろこの金持ちの犯した過ちの方にあります。

この金持ちはきっとこう考えていたことでしょう。「一度しかないこの人生、悔いのないように生きよう」と。確かにこの世では悔いのない楽しい人生だったかもしれません。しかし、永遠の神の国での人生のことも含めて考えれば、悔やんでも悔やみ切れない人生としか言いようがありません。
一度しかないこの地上での人生が、永遠の世界での命と深く結びついていることを顧みない人生は、神の目からは悔いのない人生どころか、悔いの多い人生なのです。

もちろん、このたとえ話は、天国に行くために何かの功徳を積むことを求めているわけではありません。そうではなく、この地上での人生を生きるときに、神のみ前に責任ある生き方が求められているのです。誰しも自分の責任ではないものを押し付けられて、当然迎え入れられるはずの神の国から、無残にも締め出されてしまうのではありません。その責任は他ならない一人一人の責任なのです。

この金持ちは言うかもしれません。「わたしは盗んだお金で楽しんだわけではないし、自分で稼いだお金の中で楽しんだのだから、誰にも迷惑をかけてはいないじゃないか。ラザロが貧乏で病気で苦しんでいるのは、私がいなくてもやはり貧乏で病気で苦しんでいたはずだから、私のせいではない」と。

もっともらしい言い訳ですが、一つだけ大切なことを忘れています。それは隣人に対する愛です。家の門の前で苦しんでいるラザロに対して、何もしなかったというばかりではなく、何の関心も抱かなかったということです。そして、そのことは、ラザロをお造りになった神をも心に留めようとしなかったということです。要するに、創造者である神に対する畏敬の念が欠けているからこそ、神がお造りになった人間に対する関心も欠けているのです。そのことの責任こそが大きいのです。

さらに無責任の上塗りとして、あたかもそのことをはっきりと語ってくれなかった神が悪いとでもいいたげです。しかし、人間が知る必要のあることは聖書を通してはっきりと教えられているのです。この金持ちは当然聖書に触れる機会があった人です。その聖書を差し置いて他に教えを求めても、結局は自分の考えを変えることはなかったでしょう。

わたしたちの目にはこの金持ちの生き方の危うさがはっきりと見えます。しかし、ややもすると、私たちもこの金持ちの生きた道を踏んでしまう危険があるのではないでしょうか。