2010年2月25日(木)十字架を目指す道(ルカ13:31-35)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

わたしたちが進むべき進路を決めるときに、自分のことだけを考えたら、やめておいた方がよいと思えることはいくつもあると思います。しかし、それでも、大義を思うときに、選ばなければならない道というものがあります。
「大義」という言葉は今ではほとんど死語に近いものになっているかもしれません。クリスチャンにとっての「大義」といえば、それは「神の御心」と置き換えてもよいかもしれません。あるいは「神の栄光」という言葉がそれに換わるかもしれません。
「神の御心ならば、この道を選ぼう。」「神の栄光のためにこのことをなそう。」
何かをなそうとするときに、クリスチャンはそう思うことが多いでしょう。そして、そのような生き方をイエス・キリストの生涯から学んでいるのだと思います。

きょう取り上げる個所で、イエス・キリストはご自分が進むべき道をはっきりと示しています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 13章31節〜35節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」

イエス・キリストがエルサレムへ向かって旅を続けている姿については、ルカによる福音書は9章51節以来、折に触れて記してきました(9:57,10:38,13:22)。きょうの話の舞台はまだヘロデの領地内にいたときの出来事です。

きょうの話に名前が挙がるヘロデとは、イエス・キリストがお生まれになったときのヘロデ大王(マタイ2:1)の息子の一人で、ヘロデ・アンティパスのことです。このヘロデ・アンティパスは父ヘロデ大王が治めた領地の一部を引き継ぎ、ガリラヤ湖西側のガリラヤ地方とヨルダン川の東側にあるペレア地方とを領主として統治しておりました。洗礼者ヨハネを投獄し、処刑したのもこのヘロデ・アンティパスです(マルコ6:14-29)。

このヘロデ・アンティパスがイエス・キリストの命を狙っているという知らせが、何人かのファリサイ派の人々によってもたらされます。ルカによる福音書の9章9節に描かれているヘロデ・アンティパスの様子では、イエス・キリストに会ってみたいと言うほどですから、イエス・キリストに対して興味を抱いていたことは確かです。そのヘロデがイエスを殺そうとしているとは考えにくいかもしれません。ひょっとしたら、それは知らせをもたらしたファリサイ派の人々の嫌がらせかもしれません。

けれども、洗礼者ヨハネの首をはねたほどの人物でもありますから、イエス・キリストの命をも狙らわないとは限りません。

どちらにしても、イエス・キリストは知らせをもたらしたファリサイ派の人々にこう告げました。

「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」

「あの狐」とは、狡猾なヘロデ・アンティパスを表した言葉です。自分の兄弟フィリポの妻を奪ったことも、そのことを非難した洗礼者ヨハネの首をはねたことも当然、イエス・キリストの耳に入っています。その狡猾なやり方を知っていて「あの狐」とおっしゃったのでしょう。
イエス・キリストはご自分の働きについて「三日目にすべてを終える」とおっしゃっています。この場合の「終える」という言葉は、「成就する、完成する」というニュアンスが含まれています(ルカ12:50、22:37、ヨハネ19:30)。今日も明日も続けられるイエスの働きは、ある日突然、誰かの手によって中断させられて終わるのではありません。そうではなく、完成へと向かって日々続けられるのです。しかも、文字通りの三日目ではありませんが、そう遠くない日に完成を迎えるのです。
イエスの業はヘロデの手によって中断することはできません。また、止める間もなく完成へと向かうのです。

イエス・キリストは「今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」」とおっしゃっています。
「ねばならない」という表現は、それが「義務」であるというよりは、神の御心と御計画がそこにあることを示した表現です。神の御計画を完成し、成就するためにイエス・キリストは道を進んでおられるのです。

かつてイエス・キリストは弟子たちにおっしゃいました。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカ9:22)

「長老、祭司長、律法学者たち」とはエルサレムの最高法院を構成するメンバーです。その時すでに暗にお語りになったように、イエス・キリストはエルサレムでの死に向かって、いえ、死と復活に向かっていらっしゃったのです。そして、9章51節にあるとおり、その日がいよいよ近づいたことを悟って、エルサレムへ向かう決意をされたのでした。この神の御計画はどんな人間もそれを変更することはできません。
ヘロデもファリサイ派の人々も、そのことをしかと知っておく必要があるのです。

そのように、ご自分の使命の固さをお語りになった後で、エルサレムに対する嘆きの言葉が述べられます。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」

エルサレムはイスラエルの神の神殿がある場所、ユダヤ人にとって都である場所です。そこは、神から遣わされた多くの預言者が殺されたり迫害に遭ったりした場所です。しかし、それにも関らず、神が決して見捨てずに、その御寵愛を何度も示された場所でもあります。
今、再びそのエルサレムで、神から遣わされた御子イエス・キリストが十字架につけられようとしています。この神の不思議な御計画は変えることはできません。しかし、人間の思いを超えたこの十字架の中にこそ、神の限りない愛が示されているのです。
イエス・キリストはこの神の愛と慈しみを受けることができるように、頑なに心を閉ざすイスラエルの人々に真の悔い改めを呼びかけていらっしゃるのです。これはかつてのイスラエルの人々の問題ばかりではありません。今を生きるわたしたちへの呼びかけでもあるのです。