2010年1月28日(木)悔い改めを待つ神の忍耐(ルカ13:1-9)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「他人事」という言葉があります。自分とは関係がない他人に関することを「他人事」といいます。世の中に起こることの大半は他人事です。それをいちいち自分と結びつけていたのでは、まともに生きてはいけません。
「ポストが赤いのも、電柱が高いのもわたしのせいだ」などと気にする人はいないものです。
しかし反対に、他人事でありながら、まったく自分とは無関係だと打ちやってはいけない事柄もあります。「他人事ではない」という言葉がある通り、人間には他人のことを自分のことのように考える能力も備わっているのです。
聖書の世界は何千年も昔の、しかもわたしたちとは馴染みのない世界の出来事が記されています。そこに記されたことを他人事として無視してしまうのか、自分のこととして受け止めるのか、それは大切な問題です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 13章1節〜9節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
先週学んだ個所で、イエス・キリストはわたしたちの今の状況を、訴えられて裁判に向かう人に例えてお語りになりました。それはけっして勝ち目のある裁判ではありません。唯一逃れる方法は、裁判に向かう道すがら訴える者と和解することです。時間はもう迫っています。そういう危機的な状況にあることに気がつかないでいる民衆たちに注意を喚起するために、イエス・キリストはこのようなたとえをお語りになったのです。
きょうの個所は、そのイエス・キリストがまだ民衆たちにお語りになっている最中に、ガリラヤで起こった事件の報告がもたらされたところから始まります。
その事件とは、ユダヤ総督としてローマ帝国から遣わされたピラトが、犠牲の供え物をささげようとしていたガリラヤ人を虐殺して、犠牲の供え物を汚したという事件でした。このピラトはのちにイエス・キリストを十字架で処刑する決定を下した人物です。
その事件が歴史上のどの事件のことを指しているのかということはわたしたちの興味のあるところかもしれません。しかし、残念ながらどの事件という特定できるものはありません。ただ、当時のユダヤ人歴史家であったヨセフスが報じるところでは、そのような事件はどこで起こったとしても不思議ではありません。
もちろん、そのような事件の知らせをイエス・キリストのもとへもたらしたのは、自分たちの民族と宗教生活にとって大問題ともいうべきこの事件を、ぜひともイエスの耳に入れ、しかるべきコメントを聴きたかったからに違いありません。自分が事件に巻き込まれてはいないものの、決して他人事ではなかったからです。
しかし、イエス・キリストもまた、この事件を決して他人事とは思われませんでしたが、その人たちとは違った意味でこの出来事がイスラエルにとって他人事ではないことをお語りになっています。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。」
災難と罪深さというのはしばしば単純に結び付けられてしまいがちです。自分がこんな災難にあうのは、あの時したあんなことがいけなかったのではないか。あるいは、あの時しなかったあのことに起因しているのではないか、と思い悩んだりするものです。科学的には因果関係がないとわかっていても、科学では説明しきれない何かに原因を求めてしまう弱さが人間にはあります。
また、そういう弱さを逆手にとって人を不安に陥れたり、自分が災難にあっていないことを自分の正しさの証拠のように思ってしまう愚かさがあります。
イエス・キリストはご自分の問いかけに、ご自分でこう答えています。
「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
まず第一に、人間が被る災難は、その人の罪の大きさと直接結びつくものではないということです。災難に逢うとき必要以上に自分を責める必要はないのです。また不幸な目に会った人を見て、自分の方が正しい人間だと思いあがってはならないのです。
しかし、第二に、イエス・キリストは個々の人々に襲いかかる災難が個人の罪の大きさとは無関係なものであったとしても、わたしたちに悔い改めるべき罪そのものがないとおっしゃっているのではありません。
むしろ、先週の話で学んだ通り、裁きの日はすぐそこまで近づいているのです。大きな滅びの日を目の前に控えて、空しい安心に心を寄せてはいけないのです。目の前で起こる災難を見るときに、やがて来る大きな滅びの日に思いを馳せて、真摯に自分自身の罪を悔い改めなければならないと、イエス・キリストは教えていらっしゃるのです。
では、もし災難に遭うこともなく今まで過ごしてくることができたとしたら、そのことをどう受けとめるべきなのでしょうか。
イエス・キリストはぶどう園のたとえをお語りになります。
そのぶどう園は三年も経つのに、何一つ実りのないぶどう園でした。無駄に土地をふさぐだけのぶどう園です。ぶどう園の主人は実らない木を伐り倒そうとします。しかし、園丁のとりなしで、もう一年だけ忍耐して待つことにしたのです。
裁きの斧はすでに根元におかれていると洗礼者ヨハネは伝えましたが、今の時代は神の忍耐によって、大いなる滅びの日が先延ばしになっているのです。それを自分の正しさのためだと思い違いをしてはなりません。神の憐れみと忍耐に応えて、真摯な悔い改めが求められている恵みの時なのです。それは決して他人事として片づけてはいけないのです。