2010年1月21日(木)時を見分ける(ルカ12:54-59)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「時代に乗り遅れるな」という言葉を耳にすると、おちおちのんびりもしていられないような、何だかせわしない気持ちにさせられます。確かに商売をする人たちにとっては、時代に乗り遅れたのでは、儲けのチャンスを失ってしまいます。政治家にとってもそうです。今がどんな時代かを見極めなければ、政策を立てることもできません。どんな人も、時代に乗り遅れては大変とばかり、時を見極めることに余念がありません。

もっとも、「時代に翻弄される」という言葉もあります。目先の時代を追いかけるあまり、大切な物事の流れを見失ってしまうことです。時代に翻弄されないためにも、今の時を見極めることは大切です。
特に聖書の神の教えを信じる者にとっては、今がどういう時なのか、この世の潮流に押し流されてはならない反面、聖書が教える「神の時」に無頓着であってもいけないのです。
いえ、聖書はすべての人に、今の時を見分けることを求めているのです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 12章54節〜59節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

きょうの個所は再び群衆に対する語りかけです。12章を振り返ってみると、群衆に対する語りかけから始まって、弟子たちへの語りかけが中心を占め、そして、再び群衆に対する語りかけに戻っています。

群衆への言葉は、今の時を見分けることを知らないことへの嘆きです。

「空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

確かにその土地その土地には長年にわたって積み重ねられた生活の知恵があります。そうした知恵によって、雲の動きや空の色を見ただけで、これからの天気を予想することができます。風向きの変化から、暑くなるのか寒くなるのか言い当てることさえできます。

そうしたことができていながら、しかし、今の時代がどういう時代なのか、神が定めた時の流れを感じ取れない群衆に対して、イエス・キリストは「偽善者よ」とさえ言っています。

この福音書の始めのほうで登場した洗礼者ヨハネは、集まってきた群衆たちに「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と言いました。
その「差し迫った神の怒り」を表現して洗礼者ヨハネは「斧は既に木の根元に置かれている」とさえ述べて、神の怒りがどれほど差し迫っているのか、今の時代をそのように表現しました。喉元に刃物を突きつけられても、何も思わない人がいるとすれば、それはよほど緊迫感のない人か、状況を全然把握できていない人です。

きょうの空模様や風向きから経験によって明日の天気がどうなるかを予測できたとしても、今の時代がどんな時代か読み取ることもでなければ、その対策を何一つ立てることもできないとすれば、その生き方は致命的です。

洗礼者ヨハネは今の時代を神の怒りが差し迫った時代であるとしました。だからこそ、根元におかれた斧が振り下ろされる前に、悔い改めて神に立ち返ることを勧めたのです。

イエス・キリストにとっても時の認識はまったく同じです。イエス・キリストはこの同じルカ福音書12章の中で、主人の帰りを目を覚まして待つ僕のたとえ話をしました。緊迫感を失い、時を読み間違えて、突如として戻ってくる主人の前で責められることがないようにと、イエス・キリストは弟子たちに忠実で用意周到な生き方を願ったのです。

しかし、迫りくる神の怒りの時を知らなければならないのは、キリストの弟子たちだけではありません。すべての人が今の時を見分けることが求められているのです。そうであればこそ、イエス・キリストは弟子から群衆へと話の聴き手を変えているのです。

ところで、洗礼はヨハネは差し迫った神の怒りを群衆に告げましたが、同時に、そうであればこそ、遅すぎることがないように悔い改めて神に立ち返ることを勧めました。言いかえれば、洗礼者ヨハネの教えにとっては、今の時は悔い改めの時なのです。
同じように、イエス・キリストが今の時を見極めるようにと群衆に勧めるのは、差し迫った最後の審判の時に心を向けさせるためばかりではありません。
今の時を見極めて、今の時をどう生きるべきなのかを一人一人が決断するためです。

では、今の時をどう見極めて、今の時をどう生きるべきなのでしょうか。イエス・キリストは語ります。

「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。」

そうです。今の時は審判の席に向かう、まさにその途上なのです。しかし、そこから逃れる道がないわけではありません。それは自分を訴えるものと和解することです。

幸い、神はイエス・キリストを通して罪あるわたしたちをご自分と和解させようと望んでいらっしゃるのです(2コリント5:18-20)。どんなに時代の先端を行く流行に乗り遅れないとしても、この神の和解が差し出されている今、この和解を受け入れないとすれば、その生き方は神の審判の前にもろいのです。

コリントの信徒への手紙を書いたパウロは今の時を語ってこう記しています。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(2コリント6:2)

審判への道のりが、あとほんのわずかでしかない今の時代ですが、しかし、審判の席につくまでは、和解のチャンスは残されているのです。そのチャンスをみすみす逃してしまうのは愚かなことです。イエス・キリストは、一人一人に神の怒りの日が差し迫っていることを真摯に受け止めてほしいと願うと同時に、神から差しのべられている和解のチャンスを逃すことがないようにと願っているのです。