2010年1月14日(木)火と分裂をもたらすために(ルカ12:49-53)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
クリスチャン人口が一%に満たない日本では、自分がクリスチャンになろうと思うときに、大抵の人は家族のことが気がかりになるものです。家族がキリスト教に理解を示し、好意的に受け止めてくれるとは限らないからです。
しかし、その同じ思いはキリスト教が始まったばかりの頃にもあったはずです。キリスト教はユダヤの世界からもローマの世界からも必ずしも歓迎されたわけではありませんでした。
きょう取り上げる聖書の箇所には、イエス・キリストの言葉としては珍しく厳しい口調で、家族の中に起る分裂についてお語りになっています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 12章49節〜53節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」
先週まで二回連続で学んできたのは、イエス・キリストの再臨に備えるクリスチャンの姿勢についてでした。目を覚まして再臨の主を迎える備えをするようにとイエス・キリストは弟子たちに勧めます。また特に責任ある立場の弟子たちには忠実で賢い管理人として日々を過ごすようにとお命じになっています。
きょう取り上げた箇所では、やがて再び地上にやって来るキリストではなく、今地上に遣わされているイエス・キリストの使命について語る言葉です。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」
とイエス・キリストはおっしゃいます。
「地上に火を投ずる」とはずいぶん過激な使命です。比ゆ的な表現だとしても、地上に火を投ずるというのは穏やかなことではありません。
もちろん、その場合、「火」が何を象徴しているのか、それが問題です。
ルカによる福音書の中では、「火」は聖霊と結びついて用いられる個所が一か所あります。洗礼者ヨハネは来るべきメシアについて「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼を授ける」と言っています(3:16)。しかし、同じルカによる福音書の別の個所には「火」は裁きの火として描かれている個所もいくつかあります(3:9、17、9:54、17:29)。洗礼者ヨハネは自分の後に来るメシアは、脱穀場で麦と殻とを峻別して、殻を火で焼きつくすお方として紹介しています。その場合の「火」は、明らかに裁きと結びついています。
今わたしたちが学んでいる個所の「火」という言葉の使い方も、裁きと関係した使い方だと思われます。それは、麦と殻とが峻別されるように、キリストの到来によってキリストを信じて救われる者とキリストを拒み続ける者との間に交わりがたい分裂が生じると言われているところからも明らかです。
ところで、イエス・キリストはその火が既に燃えていたらと願っていましたが、それに先だって受けなければならない洗礼について、イエス・キリストはお語りになっています。その洗礼とは十字架の苦しみ以外の何ものでもありません。
イエス・キリストの十字架を境として裁きの火は投じられ、対立はいっそう激しくなると、イエス・キリストは予告しています。
イエス・キリストによって火が投じられた結果、人々の間に分裂が生じます。イエス・キリストはおっしゃいます。
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」
確かにイエス・キリストは「平和の君」と呼ばれるお方です(イザヤ9:5)。けれども、それは信仰と不信仰をない交ぜにした平和なのではありません。キリストがもたらす平和とは、罪によって敵対していた神と人とを、十字架の死を通して和解させることからくる平和です。
しかし、神との和解によって生まれた平和が、今度はその和解を受け入れる者とそうでない者との間に皮肉なことに不和を生み出すというのです。
もちろん、その不和と分裂は和解を受け入れない人間の心のかたくなさから生じるものです。悲しいかな、同じ家の中にもキリストがもたらす和解をめぐって対立と分裂が生じてしまうのです。それはとても悲しい現実です。しかし、妥協によって解決すべき事柄では決してないのです。
もし、対立や分裂を避けて、キリストから離れるとすれば、それは人間同士の仲間内では仲良くなれるでしょう。しかし、神と敵対する関係に再び戻ったのでは、意味がありません。
クリスチャンは分裂を好んで故意に対立を生み出しているのではありません。けれども、キリストのもたらす和解を受け入れない人は言うでしょう。クリスチャンさえ意地を張らなければ、分裂など生じはしない、と。しかし、事実は逆なのです。神を離れ、神に敵対していることが、人間の中に敵対心を生み出しているのです。その神に敵対するかたくなな心を捨てて、キリストが差し出す神との和解を受け入れさえすれば、分裂も対立もやがては解消されていくはずのものです。
もっとも、そうは言っても人間の心ほどかたくななものがないことは、わたしたち自身がいちばんよく知っていることです。対立と分裂の現実を見て、絶望したり、憤りを感じたりするのではなく、むしろ、この自分のかたくなささえも変えて下さった神に信頼して、この現実を受け止めることが大切です。
イエス・キリストはやがて起るはずの分裂を、せっかく前もって知らせてくださったのです。それは何よりも、この悲しい現実が起こったときに、予想外の事態が起こったとわたしたちが慌てふためかないためです。
しかし、慌てふためかないというだけで十分ではありません。対立する家族に対して変わることのない愛と忍耐と寛容を示すべきであることは言うまでもありません。
確かにキリストは「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」とおっしゃいました(マタイ10:37)。しかし、それは、家族を恨んだり憎んだりすることを求めている言葉では決してないはずです。
自分がキリストによって救われたように、家族もキリストによって救われることを願いながら、変わることのない愛と忍耐と寛容を持ち続けることが大切なのです。