2009年12月31日(木)備えあるしもべ(ルカ12:35-40)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

キリスト教信仰の特長の一つは、世の終わりがあるという確固とした信仰を持っていることです。それは、この世界に初めがあるように、終わりもあると信じる信仰です。この世界が同じ繰り返しを重ねながらいつまでも続くと考えることこそ、人間の勝手な思い込みであると考えるのがキリスト教です。
もっとも、世の終わりがあると言う信仰は、必ずしも消極的で否定的な世界観を持っているということではありません。それは再びやって来るイエス・キリストを待ち望む信仰であり、また、神の国の完成を待ち望む信仰と深く結びついた信仰です。

きょう取り上げようとしている箇所は、世の終わりに備える姿勢について教える、イエス・キリストの言葉です。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 12章35節〜40節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

前回取り上げた箇所では、わたしたちを心に留めてくださる天の父なる神について教えられていました。神はわたしたちに必要なすべてのものを豊かに備えてくださるお方です。このお方に信頼し、思い悩みから解き放たれて、神の国を第一に求める生き方を送るようにとイエス・キリストはおっしゃっています。
また、「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とおっしゃって、神の国を第一に求めて生きようとするわたしたちを励ましてくださいました。

ところでイエス・キリストがそのようなことをおっしゃったのは、自分の命さえ富と財産によってどうにでも出来ると考える思い違いからわたしたちが解放されて、神の前に豊かに生きるためでした。

きょうの箇所はそれに続いて語られた教えです。神の前に豊かに生きるために大切なもう一つの視点が語られています。それはイエス・キリストが再びやってきてくださる世の終わりの時を視野に入れた生き方です。

神の国を求める生き方の中にすでに世の終わりへの視点が含まれていますが、きょうの箇所では終末を視野に入れた生き方がいっそうはっきりと示されています。
その生き方とはイエス・キリストの再臨に備える生き方です。
そのことを教えるに当って、イエス・キリストは二つのイメージを引き合いに出しています。
一つは婚礼の祝宴に出かけている主人の帰りを待つ僕の姿です。古代中近東の婚礼の祝宴は何日にも及ぶものでした。場合によっては一週間も続くと言うこともあったようです。ですから出かけた主人がいつ戻ってくるのかは、僕たちには予想することも出来ません。わかっているのは、家の主人が必ず帰っているということだけです。その家の主人の帰りを待つのと同じように、腰に帯を締め、ともし火をともして、キリストが再びやってきてくださる日のために備えている必要があるのです。

もう一つのイメージは泥棒のイメージです。
いつやってくるか解らないという点では、先ほどの婚礼の祝宴に出かけた主人の帰りと泥棒は似ているところがあるかもしれません。しかし、出かけた主人は必ず帰ってきますが、泥棒は必ずやってくるとは限りません。泥棒は来ないこともあります。だから、イエス・キリストの再臨も起らないこともあるかもしれない、ということではありません。婚礼に出かけた主人が必ず帰ってくるように、イエス・キリストも必ず再び来てくださいます。
しかし、待っている方の側から言えば、キリストの再臨を待つのは泥棒に備えるのに似たところがあります。泥棒はいつやってくるかわからない上に、泥棒の来ない日が何年も続けば、もうすっかり泥棒のことなど忘れてしまうからです。主人の帰りをすっかり忘れてしまう僕はいませんが、泥棒のことを忘れてしまう人はたくさんいます。出かけた主人が帰ってこなければ、かえっていっそう主人のことが気がかりになります。しかし、泥棒がしばらくやってこなければ、すっかり安心しきって泥棒のことなど忘れてしまいます。だからこそ、それに似て、キリストが再びやってきてくださる日のために備えている必要があるのです。

もっとも、泥棒に備えるのは泥棒に押し入られないためです。しかし、イエス・キリストの再臨に備えるのは、イエス・キリストが自分のところにやってくることが出来ないように備えるのではありません。むしろ、喜んでイエス・キリストを迎え入れるためです。

では、なぜキリストの再臨を泥棒に例えるのかといえば、世の終わりの時は、その用意のない者にとっては、大いなる災いのときだからです。泥棒が来る可能性がゼロではないことがわかっていながら何の備えもしないで過ごしていれば、いざ泥棒に入られたときには、その被害の大きさを食い止めることができません。
まして、キリストが世の終わりの時にやってくるのは、必ず起るべき出来事です。しかも、それは救いの完成にかかわる一大事ですから、その日に向かって備えることがなければ、それによって失う祝福は泥棒の比ではないのです。

もっともイエス・キリストが語ってくださったのは、終末に向かって備えないことがもたらす被害の大きさに、わたしたちの心を向けさせるためだけではありません。

そうではなく、イエス・キリストの再臨に備えることの大切さと、それがもたらす祝福とを第一に語っているということです。

驚くべきことに、主人は帰ってくるなり、目を覚まして待ち受けていた僕たちを食事の席に着かせ、側に来て給仕して下さるのです。そういう幸いが待ち受けている神の国だからこそ、喜びをもって終末の時に備えることが出来るのです。
しかし、このような終末の祝福に無関心で無頓着な生き方を人が送り続けるとすれば、ただ、終末の時に与えられる祝福を逃してしまうというばかりではありません。そうではなく、今、神の前で豊かに生きる生き方をも失ってしまうのです。