2009年12月3日(木)敵対する世に直面して(ルカ12:1-7)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
国家権力による思想や信条の統制、というような話題を取り上げても、戦後生まれの人にはあまりピンと来ないかもしれません。そういうわたし自身も戦後生まれで、17歳でクリスチャンになるまで、信教の自由や良心の自由について、実感をもって考えることなどほとんどありませんでした。
江戸時代からのキリシタン禁令を引きずった明治初期の時代に生きたクリスチャンにしてみれば、実際、クリスチャンとして生きることは命がけでした。明治の時代に入ってからですら、まだ、迫害と拷問によって命を落とすクリスチャンが日本にはいたのです。有名な浦上四番崩れと呼ばれる事件がそうです。
しかし、それはもう140年も前の話で、近代国家への過渡期の時代という背景を考えれば、まだまだ日本が未熟な時代であったから、という言い訳があるかもしれません。
ところがその半分の70年ほど前にも、同じようにキリスト教会への国家権の介入の時代がありました。治安維持法違反の疑いで百人近い牧師が検挙され、その中に弾圧によって獄死する者も出ました。いわゆるホーリネス弾圧事件がそれです。
こんなことは今の日本では考えられないと思うかも知れません。しかし、いったん外国と事を構えるような非常時になると、国としての意思を一つにまとめたいがために、国家権力による思想や信条の統制というようなことが平気で行なわれるようになるのです。
もっとも、迫害や拷問の心配ばかりして、ビクビクした信仰生活を送るだけだとしたら、これもまた問題です。
きょう取り上げる箇所には、迫害の時代に備える心構えと励ましとがイエス・キリストによって語られています。このキリストの言葉にしっかりと耳を傾けましょう。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 12章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」
「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
きょう取り上げた箇所の背景には、ファリサイ派や律法学者たちとイエス・キリストとの間で交わされた論争があります。イエス・キリストの言葉を聞いた律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き抱くようになったと前回学んだ箇所にありました。
その敵意は、やがてイエス・キリストを十字架の上で処刑するにまで至ります。その敵対者の手が、やがてはキリストに従う弟子たちにまで及ぶのは火を見るよりも明らかです。
そこで、ご自分に従ってくる弟子たちに、イエス・キリストはおっしゃいます。
「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」
イエス・キリストは「偽善的な生き方」に注意するようにとおっしゃいます。「偽善的な生き方」とは神の目を意識する生き方ではなく、人の目を意識する生き方です。丁度、役者が人からの喝采を得ようとして、その役柄を演じるように、人から自分を良く見てもらおうとして、良い役柄を演じるような生き方です。
自分の真実のありのままの姿を隠して、自分を良く見せようとすることは、自分の奥深くにある罪の問題を覆い隠してしまう生き方です。そのような生き方こそが偽善的な生き方の問題点です。そして、そのような生き方に組してはならないとイエス・キリストはおっしゃいます。
なぜなら「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」からです。人の目には偽善的な生き方も通用するかもしれません。しかし、それもやがては真実が明らかにされてしまうものです。まして、すべてをご存知である神の前に、偽善的な生き方は意味をなしません。どんなに上手に良い人間になりきったとしても、神はわたしたちの真実の姿をご存知なのです。
神の前で自分の真実な姿を認め、神にのみより頼もうとする生き方は、明らかに偽善的な生き方とは対立する生き方です。
けれども、もし、偽善的な生き方をする人間が多数派で、しかも権力の中枢にいるのだとしたら、その人間の生き方に合わせた方が対立も起らないかもしれません。面倒ないざこざを起こすよりも、周りにあわせて、周りと調子よくやっていった方が、世の中丸く収まるかもしれません。しかし、自分の良心に反してまで、人目を気にし、人に合わせた生き方をしようとすることこそ、まさに偽善的な生き方なのです。
イエス・キリストは「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とおっしゃいます。
迫害する者たちがしばしば使う手は、従わない者たちの身体に苦痛を加えることです。自分とは考えの違うことを強制されることはそれだけで精神的に苦痛です。まして従わなければ体に苦痛を与えるといわれれば、その苦痛に心が萎えてしまうのが人間です。命が取り去れる苦痛に平気で耐えられる人間などいないことは誰もが知っています。そうであればこそ、迫害する者はいつも命を剥奪するぞと脅すのです。
しかし、イエス・キリストはほんとうに恐れなけばならないお方がどなたであるのか、そのことをはっきりと指摘なさいます。
「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。」
もちろん、この言葉を聞いたからといって、わたしたちは現実に命を奪われる恐怖をすぐに克服できるというわけではないでしょう。やせ我慢をすれば、それこそ偽善的な生き方です。
イエス・キリストが望んでいらっしゃることは、自分の力で恐れを克服することではありません、そうではなく、すべてを司る神を頼って、迫害の恐怖を克服することです。そのお方の前にありのままに自分を認め、そのお方により頼むことこそが大切なのです。
このお方は、なるほど、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っていらっしゃる恐ろしいお方です。しかし、イエス・キリストは恐ろしいから従いなさいとはおっしゃいません。
むしろ、このお方は、売られている一羽の雀や抜け落ちる髪の毛一本にさえも心を留めてくださるお方です。まして、迫害の中で命を落とそうとしてい者に無関心なお方であるはずがありません。そうであればこそ、苦しみの中で、ありのままにこのお方により頼むことが大切なのです。そういう神の前にありのままに生きることをイエス・キリストは願っていらっしゃるのです。