2009年11月19日(木)内側の清さと実り(ルカ11:37-44)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
日本語には生臭坊主という言葉があります。もともと仏教の僧侶は肉を食べることが禁じられていましたから、その戒めを破って生臭いものを食べるというところから、品行のよくない、俗っぽい僧侶のことを生臭坊主と言うようになったようです。
福音書の中にしばしば登場するファリサイ派の人たちは、生臭坊主どころか、世俗の生活の中にありながら一点一画もモーセの律法から踏み外すことのないように努めた、厳格な生活の人々でした。
そのファリサイ派の生き方から見れば、イエス・キリストの行動はしばしば彼らの理解を超えたものでした。先祖の時代から仕えてきた神のことを口にする割には、律法の戒めを平気で破るイエス・キリストのことを、ファイリサイ派の人々はどれほど怪訝な思いで見たことでしょうか。
きょう取り上げる箇所でも、神の御心を巡る理解の違いが、ファイリサイ派の人々とイエス・キリストとの間で明らかにされていきます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 11章37節〜44節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。
それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」
きょうの話は、イエス・キリストがファリサイ派の人々から食事の招待を受けたことから始まります。ファリサイ派の人から食事の招待を受けたということは、ルカ福音書の七章にもありました。
なるほど、他の福音書を読むと、ファリサイ派の人々は早々とイエス・キリストを殺してしまおうと企んだ一派でしたが(マルコ3:6)、すべてのファリサイ派の人たちがそうであったというわけではなさそうです。この場合の食事の招待は、必ずしも何かの機会を狙ってイエス・キリストを陥れようとしたものと取る必要はなさそうです。イエス・キリストに対するまったくの善意と敬意から食事の席に招いたのでしょう。
しかし、そうであればこそ、イエス・キリストの振る舞いに目が釘付けになってしまったのに違いありません。
「その人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った」とあります。
ファリサイ派の人たちは特にそうでしたが、神を知らない異邦人との接触がある場所へ出かけた際には、その汚れから身を清めるために、帰宅後必ず手を洗う習慣がありました。これは衛生上の習慣ではなく、宗教的な清めに関わる決まりです。汚れたままで食事をすれば、その汚れによって清さを失うと考えられたからです。少なくとも、宗教的な清さに対して無頓着であると思われたくなければ、誰もがこの習慣に従っていたのです。
ですから、身を清めないままで食事の席に着かれたイエスを見た家の主人が驚くのも無理のないことです。
けれども、イエス・キリストは宗教的な清さに対して、無頓着だったわけでも、無関心だったわけでも決してありませんでした。それどころか、神の御前での清さについて、深い考えをお持ちだったのです。
ファリサイ派の人々の考えは、絶えず外に向けられていました。外側を整えることで内側も清まると考えていたのでしょう。実際わたしたちの目に見えるのは、外側です。外に現われてくる言葉や行いによって、その人がどれほど汚れた心を持っているのか知ることができます。そうであれば、先ずは外に現われている具体的な行いや言葉に気をつけることが大切であると考えるのは理解できなくもありません。
けれども、それでは外に目が行くばかりで、もとから内面にある汚れた思いや心に目が向かわなくなってしまうのです。
イエス・キリストは、人間の内側にある強欲と悪意に目を留めるようにと注意を促しています。心の内側にある「強欲と悪意」というのは、決してファリサイ派の人たちだけが持っている問題ではありません。罪人である人間が誰しも心の内に持っている問題です。その奥深い問題に目を留めることをしないで、どんなに外に現われた行いや言葉に注意を払ったところで、本当の清さは実現できるものではありません。
イエス・キリストはおっしゃいます。「外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか」
神は人間の外観だけをお造りになったお方ではありません。身体も魂も心も持った一人の人として人間をお造りになったのです。そうであれば、神が求めておられる清さは決して外面の清さであるはずがありません。一人の人全体の清さが問題なのです。
人間の内側の問題に気がつかせるために、イエス・キリストはさらにおっしゃいました。「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」
器の中のものとは一体なんでしょうか。それは心の中にあるもの、と言い換えてもよいでしょう。では、心の中にあるものを施しとして与えるとは、どういうことでしょうか。
そもそも、施しとは隣人愛から出てくる具体的な行いです。隣人愛はその隣人をお造りになった神への愛に促されるものです。また、施しは正義の実現と深い係わりを持つものです。言い換えれば、正義への思いや、神への愛が心の内になければ、ほんとうの意味での施しなど成り立たないのです。
ファリサイ派の人が、いえ、ファリサイ派の人に限らず、すべての人が、自分自身の内にある「強欲と悪意」に気がつくべきなのです。そして、神への愛と正義への思いに欠けていることに気がつくべきなのです。器の中にあるべきものが欠けていて、あってはならないものに満ちているのです。そのことに気がつかないままで、どんなに律法の定めを表面的に行なったところで、その人は清くなることは出来ないのです。
むしろ、外側も内側もお造りになった神に、すべてを明渡して清めていただくしかないのです。