2009年11月5日(木)イエスこそ天からのしるし(ルカ11:29-32)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「神がいるなら証拠を見せろ」という言葉は、最後通牒のように出てくる言葉です。そしてこの言葉が出てくるときには、どんな会話も成立しなくなって、すべてが物別れに終わってしまいます。後に残るのは、神を信じる者とそうでない者との間に横たわる深い溝です。
「神がいるなら証拠を見せろ」という言葉を聞くたびに、いったい何をもってすれば神がいる証拠となるのだろうかと考えてしまいます。
イエス・キリストを巡る当時の群衆たちも、同じような問いをイエス・キリストに投げかけました。

「もし、イエスが神からのメシアであるなら、そのしるしを見せよ」

きょう取り上げる箇所は、この「しるし」を巡るイエス・キリストの言葉です。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 11章29節〜32節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

前々回の話になりますが、悪霊を追い出しているイエス・キリストを見て、群衆のある者は「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」とイエスの働きを非難しました。また別の者はイエスを試そうとして、天からのしるしを求めた、という言うことでした。
悪霊の頭で悪霊を追い出しているという誹謗中傷に対して、イエス・キリストは、いくらサタンと言っても、内部分裂するようなことはするはずがない、と反論しました。むしろ、ご自分の働きは、神の指によっているのだから、神の国はまさにイエスご自身を通してやってきているのだ、と宣言なさいます。

その群衆とのやり取りの途中で、一人の女性が話しに割り込んできたために、話が横道にそれてしまいます。それが先週取り上げた箇所です。

群衆との対話が進むに連れて、イエスを取り囲む群衆の数はますます増えてきます。そこでイエス・キリストは群衆の中のある者たちが欲しがっていた「天からのしるし」について話を戻します。

開口一番にイエス・キリストはおっしゃいます。

「今の時代の者たちはよこしまだ」

今の時代についてイエス・キリストがお語りになるのはこれが初めてではありません。ルカ福音書7章31節以下で、イエス・キリストは「今の時代を何にたとえようか。…広場に座って、互いに呼びかけ、こう言っている子供たちに似ている」とおっしゃった後で、その時代の人々の勝手さををこう指摘しました。

「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」

また、ルカ福音書9章41節では、今の時代を「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」と嘆いておられます。

そして、きょうの箇所では天からのしるしを求める時代を批判して、「今の時代の者たちはよこしまだ」とおっしゃるのです。

では、しるしを求めることはいけないことなのでしょか。「何のしるしも求めず、ただ信ぜよ」とおっしゃるのでしょうか。決してそうではないでしょう。

イエス・キリストご自身、こうおっしゃいました。

「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(11:20)

イエス・キリストのなさる御業自体が、天からのしるしなのです。このことの中に神の働きを見ないとすれば、どんなしるしを示したとしても、それ以上確かなしるしはないのです。だからこそ、この最高のしるしに目をつぶって、他にしるしを求めるこの時代を、イエス・キリストは「よこしまな時代」と呼ぶのです。

イエス・キリストはおっしゃいます。

「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。」

一体、「ヨナのしるし」とは何でしょうか。言うまでもなく、それは旧約聖書のヨナ書に登場する預言者ヨナの話に基づくものです。
預言者ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、イエス・キリストもまた今の時代に対してしるしとなるとおっしゃいます。では、どういう点で預言者ヨナとイエス・キリストは共通しているのでしょうか。また、どういう意味でそれぞれの時代に対してしるしとなるのでしょうか。

マタイによる福音書12章40節では、「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」とその意味が解説されていて、キリストの復活がそのしるしとなると言われています。

では、実際にキリストの復活が起った時、その時の群衆たちはキリストの復活を「天からのしるし」と受け止めたでしょうか。確かにある者たちはキリストの復活を信じて、イエスこそ神から遣わされた救い主と受け入れました。
しかし、それにもかかわらず神の御業を身勝手に解釈し、不信仰でよこしまな時代の風潮はそれでも変わることはありませんでした。

かつてシバの女王は、異邦の国からやって来て、ソロモン王の中に働くまことの神の知恵を見出しました。また、かつて異邦の町ニネベの住人は、預言者ヨナの言葉の中にまことの神が自分たちに悔い改めのを迫るのを聞いて、心から悔い改めました。

けれども、残念なことにキリストの復活の中に、神の力強い働きを見出して、悔い改めへと至る者が少ないのです。しかし、それはしるしがなかったのではありません。キリストの復活というしるしをほかにおいて、信じるべきしるしはないのです。