2009年10月22日(木)神の国はやってきている(ルカ11:14-26)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
神の支配や悪霊の支配について語るのは、とても難しい現代です。現代の人間には「神の支配」という考えそのものが意味を持たないもののように思われています。むしろ、運命や運勢の支配の方を簡単に信じる人が多いような気がします。
また、神の支配よりも悪霊の支配の方に関心が偏ってしまうのも、信仰心を失いかけた現代の特徴かもしれません。悪霊の支配は映画のテーマになっても、神の支配は映画のテーマとして売れそうもありません。
しかし、そういう時代だからこそ、改めて神の支配を語る聖書の言葉に耳を傾ける必要を感じます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 11章14節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
イエス・キリストが悪霊を追い出す話は福音書のあちらこちらに記されています。きょう取り上げた箇所もそうしたイエス・キリストの悪霊を追い出す一連の記事の一つです。
ただ、きょう取り上げる箇所は、イエスが行なった奇跡を単に報告した記事ではありません。イエス・キリストが行なった奇跡がいったい何を物語っているのか、そのことを示した記事です。
事の発端は、悪霊を追い出しているイエス・キリストを目撃した人々の発言でした。
ある人たちはそれを見てこう言いました。
「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」
つまり、イエス・キリストの奇跡は悪霊の大将の力を借りた業であって、ほんとうの救い主の働きではないと言うのです。イエス・キリストは神の側に立っているのではなく、悪霊仲間と一緒になって悪霊を追い出しているに過ぎないと難癖をつけ始めたのです。
また、別の人たちは、悪霊を追い出したくらいでは本当の救い主かどうかは判断できないと言わんばかりに、天からのしるしをイエスに求めたのでした。
この天からのしるしについては、11章29節以下でお答えになっていますから、その時に改めて取り上げたいと思います。
きょうは人々が言う「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」ということに対して、イエス・キリストがどのようにお答えになったのか、見ていきたいと思います。
この群衆の発言に対して、イエス・キリストは二つの反論を加えました。一つは、もし、ほんとうに悪霊が悪霊の頭の力で追い出されているのだとすれば、それは悪霊の世界の内部崩壊に他ならないのではないか、という反論です。
いくら悪霊とはいえ、内部分裂し、内部崩壊するほど愚かな存在ではありません。自分の国が立ち行かなくなるようなことを悪霊が好んで行うはずはありません。そんなことを軽々しく口にして平気で居られる群衆は、あまりにも悪霊の力を見くびっているとしか言いようがありません。
もう一つの反論は、もしイエス・キリストがベルゼブルの力で悪霊を追い出しているというのなら、自分たちの祈祷師たちはどうなのか、という反論です。何の根拠もなくイエスが悪霊の仲間だというのなら、彼らの祈祷師たちも同じように悪霊の仲間だとは言えないか、という反論です。
もちろん、群衆たちは確かな根拠があって、イエスの業を悪霊の業だと言っているのではありません。むしろ彼らこそ悪霊に心を支配されて、最初からイエスを信じようとしないことを自ら証しているのです。最初から信じるつもりがないからこそ、イエスを信じない理由はあとからどうにでもこじつけることができるのです。そして、その根拠が矛盾したおかしな根拠であることに気づこうともしないのです。
いえ、これは彼らだけに起ったこと特殊なことではありません。だれでも悪霊に心を閉ざされ、支配されているものには、イエスの奇跡が意味することを悟りえないのです。
では、イエス・キリストがなさっている奇跡にはどんな意味があるのでしょうか。イエス・キリストはおっしゃいます。
「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
イエス・キリストの働きの中に悪霊の頭の影を見るのではなく、その働きの中に神の国の到来を、神の恵みのご支配をこそ見るべきなのです。
イエス・キリストは言葉を続けておっしゃいます。
「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。」
この場合の「強い人」とは、今まで人間を悪の支配下においていたサタンを言い表しています。確かに悪霊に支配され、悪霊の言いなりになっている限りでは、自分たちは安全に見えました。しかし、その偽りの平和と安全は、もっと強いお方、神の恵みの支配によって打ち砕かれようとしているのです。
まさに、「今や、恵みの時、今こそ救いの日」なのです(2コリント6:2)。
だからこそ、イエス・キリストはわたしたちに呼びかけて、キリストの側に立つようにと呼びかけていらっしゃるのです。だからこそ、再び汚れた霊ではなく、清い神の聖霊を受け入れるようにとわたしたちを招いて下さっているのです。