2009年10月15日(木)祈りつづける大切さ(ルカ11:5-13)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
私自身の小さな経験からの話です。今まで様々な教派や国籍のクリスチャンたちに出会いましたが、祈りの熱心さと言う点では、韓国のクリスチャンにまさる人たちに出会ったことはありません。教派の違いなく、どのクリスチャンも祈ることに熱心です。祈りが聞き上げられるまで、祈りつづけるその姿勢には気圧されるものがあります。
その反面で、そのような祈りは神の御心を受け入れる祈りではなく、自分の願いを神に押し付ける祈りにはならないのだろうか、という疑問も心の中をよぎります。
もっとも、そうした祈りがかなえられたという証を聞くたびに、あまりにも諦めの早い自分を恥かしく思うこともあります。
祈りつづけることと、御心を受け入れることとがどのように調和するのか、これはクリスチャンにとって大切な事柄であると思います。きょう取り上げようとしている箇所は、そのことを考えさせる箇所であるように思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 11章5節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
前回は「主の祈り」についての箇所を取り上げました。きょう取り上げた箇所は、その主の祈りの言葉を教えられた直後に、イエス・キリストがお話して下さった教えを記した箇所です。
前回も触れましたが、「主の祈り」が記されているのは、ルカ福音書の11章とマタイ福音書の6章です。興味あることには、どちらも、主の祈りの言葉の直後に、イエス・キリストが教えられた言葉を書き記している点です。マタイ福音書には「主の祈り」の言葉と並んで、「赦し」についての教えがその後に続いています。それは「主の祈り」の中の「わたしたちの負い目を赦してください」という祈りの言葉に関係した教えです。
ルカによる福音書では、しつように求め続けることの大切さが、主の祈りの直後に教えられています。それは主の祈りの中の「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という言葉と関係しているようです。
先週も言及しましたが、同じところをマタイによる福音書は「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と表現しています。祈りの内容は「必要な糧」を求める点で同じですが、ルカ福音書の言葉は「日々与えつづけてください」という願いの継続性が色濃く表現されています。言い換えれば、それは継続して祈るべき日々の願いなのです。その願いに関連した教えが、きょう取り上げた祈りの姿勢に関するたとえ話であると言うことができると思います。
たとえ話の内容はいたって簡単な内容です。真夜中に友達の家に行って、パンを借りようとする人の話しです。旅行中の友人が自分の家に立ち寄ったのに、何も出すものがないので、仕方なく友だちからパンを借りようとしたと言うのです。いくら友人だからと言って、真夜中にパンを借りに行くのは非常識です。家族みんなが同じ部屋で寝ている当時の狭い家のこと、一人起きだしてパンをごそごそと探せば、みんなが起きてしまうのは分かりきったことです。案の定、中から返ってきた返事は、面倒をかけないでくれ、というものでした。
しかし、イエス・キリストはこのたとえ話を結論付けておっしゃいます。
「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」
神とわたしたちの関係もそれと同じなのです。わたしたちは主の祈りの中で、神を父と呼びかけるようにと教えられます。当然、父親とその子供との間柄は、友人同士の関係以上に親密なはずです。しかし、その親密な関係から横道にそれて、いつしか、親子なのだから与えられて当然という思いが心のどこかに生まれてしまうことがあります。けれども、それは子が親に対して抱く信頼関係とは別な思いであることに気がつく必要があるのです。
神が父親なら子供の必要を知っていて当然だ、知っているならくれて当然だ、と思う心が、いつしか祈ることそのものを妨げてしまう危険があるのです。わがままな思い込みと信頼関係の上に成り立つ願いとは違うものなのです。
親子の信頼があるからこそ、神は執拗に願い求められることを疎んじないのです。このたとえ話は、信頼関係を度外視して、しつこく頼めば相手はいつかは折れるということを教えているのではありません。そうではなく、信頼しあった間柄であるからこそ、しつように頼みつづけることができるのです。
さて、イエス・キリストは言葉を次いで、さらにおっしゃいます。
「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」
「求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という確信はどこからくるのでしょうか。
それはだれでも父親は自分の子供には良い物を与えることを知っているからです。
「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」とイエス・キリストはおっしゃいます。子どもの願いが聞き入れられたのは、それが子供にとって必要なものであったからです。
子供が必要なものを願い求めているのに、敢えて子供にとって有害なものを与える親はいません。求めたものが与えられ、探したものが見いだされるのは、それがよいものだからです。だからこそ、父である神の前では「求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と断言することができるのです。
もちろん、現実のわたしたちは、そうとは思わずに魚ではなく蛇を求めたり、卵ではなくさそりを求めることもあるでしょう。そして、それがために願ったものを手に入れることができず、かえって、ほんとうに必要な魚や卵の方は与えられるということはあることなのです。もちろん、このたとえ話にはそうした屈折した人間の状況についてはいちいち語られてはいません。
父なる神が、子供にとって必要なものを与えてくださらないはずはありません。そういう確信と信頼関係があるからこそ、必ず与えられると確信して祈りつづけることができるのです。またそのように祈りつづけることを神は願っていらっしゃるのです。