2009年10月8日(木)主の祈り(ルカ11:1-4)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教会には誰もが知っている祈りの言葉があります。それは「主の祈り」と呼ばれる簡潔な祈りの言葉です。翻訳された言葉こそ違え、世界中のクリスチャンは「主の祈り」をそらで唱えることができるほどに、ことあるごとによく「主の祈り」を祈ります。
きょうは、イエス・キリストが弟子たちに教えてくださった主の祈りについて、聖書から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 11章1節〜4節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
「主の祈り」の言葉が記されている箇所は、新約聖書に二箇所あります。きょう取り上げたルカによる福音書11章とマタイによる福音書6章です。マタイによる福音書では、イエス・キリストの教えをまとめて記した「山上の説教」と呼ばれる箇所に出てきます。それに対してルカによる福音書では、弟子たちの要望に応える形で主の祈りの言葉をイエス・キリストがお教えになったことが記されています。
また、祈りの言葉自体もマタイ福音書とルカ福音書とでは異なっており、ルカによる福音書に記された「主の祈り」の言葉の方がマタイに記されているものよりもずっと簡潔な言葉で記されています。
もっとも、そうした違いはあまり本質的なことではありません。
さて、先ほども言いましたが、ルカによる福音書によれば、イエス・キリストが弟子たちに「主の祈り」をお教えになったのは、弟子たちが祈るイエスの姿を見て「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったからでした。
祈る姿のイエス・キリストを特別に多く書き記すのはルカによる福音書の特徴です。洗礼者ヨハネから洗礼を受けたイエスの上に聖霊が鳩のように降ったのは、水から上がってイエスが祈っている時でした(3:21-22)。イエスの噂が広まって大勢の群衆がみもとに押し寄せてきた時、イエスはわざわざ人里離れた所に退いて祈りに専念されました(5:15-16)。使徒と呼ばれる十二人の弟子たちを選び出す前にも、イエス・キリストは山に登って夜を徹して祈られました。イエスの姿が光り輝く「山上の変貌」と呼ばれる出来事が起った時も、祈りために山に登り、祈っている時にそのことが起ったのでした(9:28-29)。そういう祈る姿のキリストを誰よりも多く書き記しているのはルカ福音書です。
そして、きょう弟子たちがイエス・キリストに「祈りを教えてください」と願い出たときも、イエス・キリストは祈っていたのです。
「主の祈り」は主イエス・キリストが唱えるべき言葉を教えてくださった祈りというばかりではありません。弟子たちは、イエス・キリストの祈る姿勢と共に祈りの言葉を受け取ったのです。「主の祈り」を学ぶということは、祈る姿のイエス・キリストをそこに学ぶのです。
さて、ルカによる福音書が伝える「主の祈り」の言葉そのものを見てみたいと思います。
どの祈りもそうだと思うのですが、祈りは神への呼びかけから始まります。その時、神をどう呼びかけるのかということは、その人が神と自分との関係をどう捉えているのか、ということと深く関わっています。
イエス・キリストは「父よ」という言葉で、祈るようにと弟子たちに教えています。イエス・キリストご自身がそのように祈っていらっしゃいました。マルコ福音書の14章36節に記されているとおり「アッバ、父よ」と呼んでいらっしゃるのです。
もとより、旧約聖書の中にも、神を「父」と呼ぶ例がないわけではありません。しかし、ここでイエス・キリストが使っていらっしゃる「アッバ」と言う言葉は、アラム語で幼児が父親を親しみを込めて呼びかけるときに使う言葉だといわれています。そう親しみを込めて神を「アッバ、父よ」と呼びかけることができるのは、イエス・キリストが神の御子であるからに他なりません。しかし、イエス・キリストはその親しみある呼びかけで神に祈るようにとおっしゃってくださっているのです。そう祈ることができるのは、キリストと結び合わされた者に与えられた恵みです。
この神への呼びかけに続いて、二つの願いが述べられます。まずは神の御名と御国に関わる願いです。
「御名が崇められますように。御国が来ますように。」
祈るということは、何もクリスチャンだけがそうするというわけではありません。人間ではどうすることもできない願いを持つときに、人は人知を越えた何ものかにすがり、その願いが祈りの言葉となって出てくるものです。
しかし、イエス・キリストが教えて下さった祈りは、自分自身や隣人に関わる願いに先だって、先ずは思いが神へと整えられる祈りです。果たして祈りの実現を通して神の栄光が現れることを望んでいるのか、そのことが問われる祈りです。
人間の気ままな思いつきや欲深い願いが支配して、神の愛と義の支配を拒んではいないか、そのことが問われる祈りです。
この二つの願いに続いて、自分たちに直接関わる三つの願いが述べられます。
「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」
わたしたちに必要な糧について求める祈りは、マタイとルカの言葉が微妙に違っています。マタイに記された言葉は「今ください」というニュアンスを持っています。それに対してルカは「毎日与えつづけてください」という継続的なニュアンスで祈ります。もちろんここで求めていることは文字通りのパンだけではありません。わたしたちに必要なすべてを神が滞ることなく与えてくださることです。言い換えれば、この祈りを通してわたしたちが神の恵みに支えられて生きていることを日々覚えるのです。
罪の赦しを願う言葉もマタイとルカで微妙に異なっています。しかし、願っている本質は一緒です。わたしたちは神から罪を赦していただかなければ、誰一人として神の御前に立つことはできません。そして、神から赦していただいているからこそ、人を赦す心が芽生えるのです。人を赦すことが、自分が赦される条件ではありません。クリスチャンの歩みは、神の恵みによって罪赦された者の歩みなのです。そのように生きることができるようにという祈りです。
最後に、罪への誘惑から守られるようにとの願いで祈りが締めくくられます。キリストのゆえに罪を赦していただいたとはいっても、キリストの弟子として完成されていくのには長い道のりがあります。決して自分の力を過信してはいけないのです。誘惑に負けるかもしれない自分の弱さを認め、神の力に委ねて歩むことをこの祈りは教えてくれるのです。