2009年10月1日(木)取り去ってはならない大切なこと(ルカ10:38-42)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
漢字の「忙しい」と言う字は、「心」を表す「りっしん偏」に、「亡くなる」と言う字を書きます。つまり、忙しいとは心を亡くしてしまうことだ、と説明されます。なるほどそうだと頷いてしまいます。忙しくすることで、生活が充実したような気持ちになる反面、忙しすぎて物事をまともに考える余裕を失ってしまうというのも本当のことだと思います。
忙しさにかまけて、大切なものを見失ってしまっては大変です。
きょう取り上げようとしている箇所には、性格がまったく違う二人の姉妹が出てきます。この二人の姉妹の話から、なくしてはいけない大切なことがらを学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 10章38節〜42節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
きょう取り上げる話は、「一行が歩いて行くうち」という出だしで始まっています。すでに学んだように、ルカ福音書9章51節を境に、イエス・キリストはエルサレムへ向かう最後の旅に出ています。きょうの箇所は、その旅の途上にあることを思い出させる書き出しです。
ところが、この物語に出てくる二人の姉妹はヨハネによる福音書11章を見ると、ベタニア村の人であることが知られています。イエスによって甦らされたラザロの姉妹たちです。ベタニア村はエルサレムにずっと近い場所ですから、ほんとうならば、旅も終わり近くに差し掛かっているということになるのでしょう。しかし、それよりずっとあとのルカ17章11節には「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた」と出てきますから、話の順序が実際の旅と前後していることがわかります。
ルカによる福音書は9章51節以降、十字架を目指してエルサレムへ旅するイエス・キリストの姿を大枠で描きながら、しかし、取り上げる話は必ずしも日付順の旅日記ではなく、必要なテーマに沿って自由に並び替えているようです。
前回取り上げた「よきサマリア人のたとえ話」が「隣人愛」に関わる事柄であるとすれば、きょう取り上げる箇所は「神への愛」を具体的な出来事を通して考えさせる箇所といったらよいと思います。
きょうの箇所に登場する二人の姉妹は、どこにでもいそうなタイプの姉妹たちです。マルタはてきぱきと家事をこなし、おもてなしが上手な女性のようです。この日もイエス・キリストをお迎えするとあって準備に張り切っています。しかし、思うように準備が整わなくて、気持ちに余裕がないようです。それだけならば、まだなんとか頑張って準備を整えることができたでしょう。マルタの気持ちをイライラさせたのはマリアの態度でした。といっても、マリアがマルタに対して直接何かをしたと言うのではありません。ただ、イエスの話に我を忘れて聞き入っていたと言うことです。
いえ、それ以上に我慢できなかったのは、そんなマリアの態度をイエス・キリストが何も言わずに受け入れているということです。怒りの矛先はマリアに対してではなく、イエス・キリストに向けられます。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
そんなマルタに対してイエス・キリストがおっしゃった言葉はこうでした。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
このイエス・キリストの言葉は、決してマルタを叱りつけている怒りの言葉ではありません。むしろ、多くのことに思い悩み、心を乱さざるを得ないマルタに対する深い同情の言葉です。「マルタ、マルタ」と二度にわたって繰り返しマルタに呼びかけていることからうかがい知ることができます(22:31-32参照)。
しかし、多くのことに思い悩み、心を乱してしまう奉仕のありかたがもっている問題点をも指摘しているのです。
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛することこそ、奉仕の根底にあるはずのものです。神を離れて心があちこちに揺れてしまうときに、その奉仕が揺らいでしまうのです。
また、隣人を自分のように愛することを忘れるとするならば、その奉仕は意味をなさなくなるのです。
もちろん、状況によってはマリアももてなしの準備を手伝うべきであったかもしれません。しかし、少なくともイエス・キリストがご覧になる限り、今はイエス・キリストの言葉に耳を傾け、イエス・キリストとの交わりの中に身を置くことの方が、マリアにとって取り上げることのできない大切なことだったのです。
もう間もなく十字架におかかりになるイエス・キリストのことを考えるなら、なおのこと、このイエス・キリストとの交わりの時間は重んじられなければなりません。
それは、マリアばかりにとってではなく、マルタにとっても必要で大切な、取り上げることの出来ないものであったはずです。
神の言葉を聞く機会を削ってでも奉仕の業に励むと言うのはまったく意味のないことです。神の言葉を重んじ、神を心から愛してこそ、その奉仕は意味をなすのです。
やるべきことがたくさんあるというのが、人間の思いかもしれません。そして、それらはどれ一つとして意味がないというのでもありません。
ただ、神の言葉に耳を傾け神との交わりを取り上げてでもしなければならないほどのことは、ほとんどないのです。
そして、もし、犠牲を払ってでもおこうなうべき奉仕があるとすれば、それは神への愛と隣人への愛からだけ出てくるべきものです。
わたしたちが実際にそのような姿勢で奉仕に臨むことができるかと言えば、決して易しいことではありません。しかし、肝心な点がどこにあるのかを知っているだけでも、奉仕のことで多くのことに思い悩んだり、心を乱してしまうことから身を守ることができるのではないでしょうか。