2009年9月24日(木)隣人となるのは誰か(ルカ10:25-37)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
クリスチャンは旧約時代の律法から解放されているとよく言われます。しかし、その意味するところは、神を愛し、人を愛することを教える神の律法を守る必要がまったくなくなったということではありません。むしろキリストによって救われた者だからこそ、いっそう神の御心に沿う生き方が求められているのです。
きょうは律法の理解を巡ってやり取りされる、ある律法学者とイエス・キリストとの対話から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 10章25節〜37節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
きょう取り上げたこの箇所は、「よきサマリア人のたとえ話」としてとても良く知られている箇所です。ルカ福音書だけがこの有名なたとえ話を載せています。
このたとえ話のきっかけとなったのは、ある律法の専門家から寄せられた質問です。その質問は「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」というものでした。
もちろん、律法学者がそれを尋ねたのは、イエスを試すためでした。このよく知られた伝統的な問いに、イエス・キリストがどうお答えになるのか、それによってイエスという人物を評価しようとしたのです。
イエス・キリストはその質問に直接お答えにならないで、逆に質問してきた律法学者に、神の律法をどう理解しているのかと反問しています。律法学者は答えます。
「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
イエス・キリストはこの答えを聞いて、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」とおっしゃいます。この言葉で、試す者と試される側の立場が逆転してしまいます。イエス・キリストは律法学者に問い掛けていらっしゃるのです。答えを知りながらなぜ行なおうとしないのか、と。
試される側になった律法学者は、自分が答えた律法をなぜ行なわないのか、自分を正当化する理由を見出さなければならなくなりました。
そこで、律法学者は、「隣人とは誰か」という定義の曖昧さに、この律法を守ることができない正当な理由を見出そうとしたのです。つまり、何処から何処までが愛の対象である「隣人」に含まれ、何処から何処までが愛する必要のない「敵」なのか、それがあたかも問題の中心であるかのように自分を正当化しようとしたのです。
イエス・キリストはこの愚かな問いに、たとえ話をもってお答えになったのです。
たとえ話の筋立てはとても簡単なものでした。旅の途中の男が強盗に襲われ、半殺しのまま放置されてしまったという筋書きで始まります。その場を通りかかった祭司もレビ人も見て見ぬ振りをしてその場を通り過ぎていきます。
もちろん、この二人にはこの男を助けない言い訳がありました。聖なる務めにつくこの人たちは、うっかり死人に触れて身を汚し、自分の務めにつくことができなくなっては大変です。それに、強盗はまだ近くに潜んでいるかもしれません。男を助けようとして自分も殺されては、何の役にもたちません。
ところがユダヤ人には軽蔑されていた汚れた民族のサマリア人がその場を通りかかると、この半殺しになった人を助けて、できる限りことをしてやります。
たとえ話を一通りお話になったと、イエス・キリストはお尋ねになります。
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
イエス・キリストは、追いはぎに襲われたこの男があなたの隣人であるかどうか、とはお聞きになりませんでした。そうではなく、誰がこの男の隣人となったのか、と問い掛けていらっしゃるのです。
「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めは、隣人とは誰かを定義した上で守るものではありません。そうではなく、自分が誰かの隣人となることを求めているのです。
では、わたしたちは誰かの隣人となって、その人をほんとうに愛することができるのか、というと、実際にはそうではありません。何かと理由をつけて、隣人になれない自分を正当化してしまうことに躍起になるだけです。
わたしたちの姿は、見てみぬ振りをする祭司やレビ人であるかもしれません。いえ、それ以上に強盗に襲われて、何もなす術のないこの男の姿こそ、実はわたしたちの現実の姿なのです。できることと言えば、ただ助けを待つだけです。
イエス・キリストがお話してくださったたとえ話は、「隣人とは誰か」という発想の間違いを正すというばかりではありません。それ以上に、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか」という問いの間違いも正しているのです。
たとえ話に出てくるようなよきサマリア人に助けられなければ、命を得ることはできないのです。よきサマリア人とは、ほかならないイエス・キリストご自身ではないでしょうか。命の危険を顧みず、必要な助けの手を差し伸べる人。イエス・キリストこそその人なのです。