2009年8月13日(木)エルサレムへ向かう決意(ルカ9:51-56)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
歴史を振り返って、その当時の人々の理解や判断を批判することはよくあることです。そして、そうした批判は、今だからこそ言えるというものがほとんどです。
その時代を生きている人間にとっては、ものごとの全体像や次の時代のことははっきりとわからないものです。今のわたしたちよりも判断するずっと材料が限られているからです。
同じことは福音書の中に登場する弟子たちの行動や発言を取り上げるときにも言えることです。
今を生きるわたしたちにとっては、すでに、キリストの十字架の意味は明らかです。メシアが何故苦しみにあい、十字架と復活が必要なのかも十分知らされています。既に天にお帰りになったメシアの姿も聖書を通して教えられています。
しかし、当時の弟子たちにとっては、それらすべてのことが起ってしまうまでは、メシアであるイエス・キリストのことを十分には理解できなかったとしても仕方のねい面もあります。
今日の場面に登場する弟子たちも、今のわたしたちからすればあいかわらずトンチンカンな発言をする弟子たちです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 9章51節〜56節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。
今まで学んできたルカによる福音書の9章は、この福音書にとって一つの山場となる章でした。というのは、この9章で、弟子たちの口を通して、初めて「イエスこそ神からのメシアである」と告白されたからです。しかし、そのことよりも大切なことは、この弟子の告白をきっかけとして、イエス・キリストはメシアが受けることになっている苦難と復活について、大胆に語り始めたということです。
弟子たちが「イエスはメシアである」ということをどういう理解に基づいて告白したのかは分かりませんが、少なくともイエス・キリストがご自分の身に引き受けられたメシアとしての使命と弟子たちが描いていたメシアとの間にはギャップがありました。イエス・キリストがご自分のお受けになる苦難について語れば語るほど、そのギャップは大きくなっていったようです。ルカ福音書の第9章はご自分の弟子たちからも十分に理解されないイエス・キリストの姿と、しかし、それにも関わらず、ご自分の使命に従ってまっすぐ進まれるイエス・キリストの姿が描かれます。
きょう取り上げた箇所には、いよいよエルサレムに向かって旅の足を向けようとするイエス・キリストの決意が描かれます。
それまでは主にガリラヤ周辺で神の国の宣教を続けてこられたイエス・キリストですが、きょう取り上げた9章51節でこう描かれます。
「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」
ここを起点として、19章45節でエルサレムの神殿にお入りになるまで、このエルサレムに向かう旅の記事は続きます(ルカ13:22、17:11、18:31、19:28、19:41)。
さて、イエス・キリストがエルサレムに向う決意をされたということは、ただ、エルサレムでもたれる祭りに参加するために旅の用意をしたというのとは違います。弟子たちに予告してきた苦難を受ける場所がまさにエルサレムだったのです。それは山の上でモーセとエリヤとともに語り合った「エルサレムで遂げようとしておられた最期」と関係しているのです(ルカ9:31)。エルサレムに向かう決意とは、そういう苦難を受ける旅への決意なのです。
ところで、エルサレムへの旅立ちをイエス・キリストが決意されたのは「天に上げられる時期が近づく」その時でした。もちろん、イエス・キリストのご生涯を既に知っている者にとっては、復活のキリストが父なる神のもとへと昇天されたのはよく知られている事実です(ルカ24:51)。しかし、その時の弟子たちには今がどんな時期なのかを知る術もありません。ただ、イエス・キリストだけが、ご自分が天に上げられる時が近づいたことを悟って、与えられた使命を遂げようとエルサレムに向かう決意をされたのです。
けれども、こうしたイエス・キリストの重大な決意の意味を理解できない弟子たちは、イエス・キリストの思いとはまったく違った思いで、この旅のお供をします。人間の救いのために苦難を引き受けられるイエス・キリストの旅と、そうとは思いもしない弟子たちのとった行動とのギャップが描かれます。そのギャップの中に、孤独なイエス・キリストの姿が浮かび上がってきます。
イエス・キリストがご自分の身に引き受けようとしている苦難は、あらゆる人の救いのためです。それはユダヤ人に限らず、サマリア人もそのほかの異邦人も含むものです。
ところが、エルサレムに向かうイエス・キリストを歓迎しないサマリア人を見て、弟子たちは彼らが今すぐにでも神の裁きにあうことを願います。救いのために身を差し出そうと苦難の道を歩みだすイエス・キリストのお心から何と離れてしまっている弟子たちでしょう。こんな批判は今のわたしたちだからできることでしょう。きっとヤコブやヨハネの立場に自分がいたら、同じことを考えたに違いありません。
サマリア人とユダヤ人が犬猿の仲であることは、今にはじまったことではありませんでした。どちらも自分たちこそがまことに神を礼拝するまことの信仰者であると自負する者たちでした。サマリヤ人たちが自分たちの礼拝の場所とは異なるエルサレムに向かうイエスを知って歓迎しなかったのは、サマリア人の歴史から言って十分に理解できる行動です。しかし、残念にもまことの救い主であるイエス・キリストを拒んでしまったのです。
そのサマリア人のとった行動を見た弟子たちが、激しい憤りにかられたことも、民族の歴史から十分に理解できる行動です。
しかし、そのどちらも、イエス・キリストをわたしたちのために苦しみを受けられるまことの救い主と理解できない点では五十歩百歩なのでした。
このような人々の無理解の中で、しかし、それにもかかわらず、イエス・キリストの決意は変わらず、苦難の道へとイエス・キリストは歩みを進めておられるのです。
まことに罪深いわたしたちを救うのは、自分を正しいと思うわたしたちの正義感ではありません。そうではなく、わたしたちの罪深さのためにご自分を献げて罪の贖いを成し遂げてくださるイエス・キリストが、ユダヤ人であれ、サマリア人であれ、どんな民族の人間であれ、わたしたちを罪から救ってくださるのです。