2009年7月23日(木)栄光に輝くイエスの姿(ルカ9:28-36)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

ヨハネによる福音書は、その冒頭におかれたプロローグの中で地上を歩まれたイエス・キリストについて「わたしたちはその栄光を見た」と証言しています。もちろん、ヨハネ福音書がそう語っているのは復活のキリストの栄光を見たからこそ言えることです。それはどの福音書記者にも共通した視点です。栄光の主イエス・キリストを知っているからこそ、福音書を栄光に溢れる書物として書くことが出来たのです、
しかし、イエス・キリストと共に地上を歩んでいた頃の弟子たちは、どうだったでしょうか。もちろん、イエス・キリストの行う不思議な業を目にし、権威ある教えを耳にして、このお方がただならないお方であることは十分に感じ取っていたことでしょう。そうであればこそ、弟子たちの口から「神からのメシアです」という言葉も出てきたのです。
しかし、目の前にいるイエス・キリストの姿は、特別に後光が差していると言うわけではありませんでした。あくまでも、人間と同じ姿です。
けれども、そんな弟子たちも、復活に先立ってただ一度だけ、特別に輝くイエス・キリストの姿を目撃したのです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 9章28節〜36節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

きょう取り上げる箇所は、「山上の変貌」と呼ばれる有名な箇所です。山の上で祈るイエスの姿が変わり、栄光に輝く姿になったところから、この場面を「山上の変貌」と呼び慣わしています。
この場面を語るルカ福音書は、物語の書き出しを「この話をしてから八日ほどたったとき」と始めます。「この話」というのは、直接には「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とお語りになるイエス・キリストの一連の言葉をさしていますが、そればかりではありません、
そもそも、イエス・キリストがそれらのことをお語りになったのは、イエスを神からのメシアであると告白したペトロの信仰告白があったからです。
イエス・キリストはペトロの信仰告白を受けて、ご自分がどんなメシアであるのか、これからご自分の身に起ろうとしていることを予告なさいました。それは十字架の苦難を背負い、死んで復活されるメシアの姿です。そして、そのようなメシアに従う者たちに求められていることとして、「日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とキリストはおっしゃったのです。
この一連の話の流れと「山上の変貌」の出来事とは切り離すことはできません。イエスがお語りになったのは苦難のメシアの姿と同時に、苦難を通して栄光に甦るメシアの姿です。そうした流れの中で考えると、山上の変貌の出来事では、苦難の先にある栄光の姿を、弟子たちにお見せになったということができると思います。

さて、栄光に輝くイエスと共に二人の人物が現われたとあります。それは旧約聖書を代表する人物モーセとエリヤです。山上の変貌の出来事はマタイによる福音書にもマルコによる福音書にも記されている話ですが、モーセとエリヤがイエスと共に何を語り合っていたのかを記しているのはルカによる福音書だけです。

「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」

ルカによる福音書はそのように語り、山上の変貌の出来事と、イエスがエルサレムで受ける苦難と栄光とを関連ある出来事として描いています。

ところで、ルカによる福音書はエルサレムでイエスが遂げようとされることを「最期」と呼んでいます。ギリシャ語では「エクソドス」といいますが、もともとの意味は「道から出ること」です。つまり、比ゆ的な意味で人生の道から出てしまうこととは、人の「死」を指す言葉です。ですから、ここでモーセとエリヤがイエスと話し合っていたことは、イエスがエルサレムで成し遂げようとされていた十字架の「死」についてであったと言うことができるかもしれません。
しかし、この言葉はイスラエル民族がモーセに率いられてエジプトを脱出した事件を指す言葉でもあります。もし、そうした意味もここに含められているとすれば、三人が話し合っていたことは、イエスの十字架での死そのものではなく、その死を通して実現される、新しいイスラエルの脱出ということになるでしょう。モーセはイスラエル民族を奴隷の家であるエジプトから脱出させましたが、イエス・キリストは十字架の死を通して、罪の奴隷の家から信じる者たち、新しいイスラエルを解放してくださるのです。

しかし、残念なことに、この光景を目撃していた弟子の一人ペトロには、その意味が理解できませんでした。ちぐはぐな発言をします。

「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

ペトロがそう言ったのは、この栄光ある場面をいつまでも留めておきたいためだったのでしょう。しかし、メシアの栄光は苦難を通しての栄光なのです。
後に復活のイエス・キリストは弟子たちにおっしゃいました。

「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」(ルカ24:25-26)

やがて、雲が立ち込め、モーセやエリヤの姿を覆い隠すと、それと引き換えに、雲の間から天からの声がします。

「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」

この言葉は苦難と栄光のメシアであるイエスを肯定する神の声です。苦難だけでもない、栄光だけでもない、苦難を通して栄光に輝くメシアこそ、わたしたちが耳を傾け、自分の十字架を日々背負って従っていくべきメシアなのです。