2009年7月9日(木)ペトロの信仰告白(ルカ9:18-22)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「キリスト」という言葉はヘブライ語の「メシア」に由来する言葉です。その言葉の意味は「油を注がれた者」と言う意味です。イスラエルでは王や祭司を任命する時に、油を注いで職に任じたことから「油注がれた者」という言い方が生まれました(1サムエル2:10、詩編28:8他)。やがてメシアは、一般的な王や祭司を意味するばかりではなく、世の終わりの時に現われて民を救う特別な救済者を指すようになりました。
キリスト教とは、ナザレのイエスこそが世界の救い主、メシア、キリストであると信じて告白する宗教です。
きょう取り上げようとしている箇所では、この信仰の告白が弟子のペトロによって初めてなされた場面です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 9章18節〜22節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
「イエスは一体何者なのだろう」という噂は、イエス・キリストの活動が広まれば広まるほど人々の口に上るようになりました。今までルカによる福音書はガリラヤで神の国の宣教に勤しまれるイエス・キリストの姿を描いて来ました。神の国の教えを伝え、数々の不思議な業をなさるイエス・キリストの姿です。9章51節からは、天に上げられる日が近づいたことを悟ったイエス・キリストがエルサレムへ向って旅に出ます。
そういう意味できょう取り上げているペトロの信仰告白は、ガリラヤでの活動の一つの山場ということができます。
既に学んだように十二人の弟子たちが派遣されて、いたるところで福音が告げ知らされると、噂の声はあちらからもこちらからもあがります(9:7-8)。イエスのことを「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」とか「エリヤが現れたのだ」とか、更には、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたのです。それで、民衆のそんな噂を耳にしたガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、ヨハネなら自分が首をはねたはずなのに、一体イエスとは何者なのだろう、と興味を示しました。
きょうの箇所はそうした人々の反応が背景にあります。
ペトロの信仰告白はイエスの側からの問いかけがきっかけになっています。19節をみると、イエス・キリストは弟子たちに問い掛ける前に、ひとりで祈っていたとあります。祈る姿のイエス・キリストを描くのはルカによる福音書の特徴ですが、とりわけ主要な場面で祈る姿が出てきます。
今までに学んだところで言えば、洗礼をお受けになったイエス・キリストの上に聖霊が鳩のように降ったのは、イエス・キリストが祈っているときでした(3:21-22)。あるいは十二人の弟子たちをお選びになる前に、イエス・キリストは夜を徹して祈られました(6:12)。そうした場面と同じように、イエス・キリストはご自分を誰と思うかという告白を弟子たちから引き出す前に、ひとりで祈っておられたのです。ですから、ペトロがイエスをメシアであると告白する背景に、イエスの祈りがあったと言うことを心に留めなくてはなりません。
わたしたちが信仰を告白できるようにと、イエス・キリストは今もなお祈っていてくださっていることを信じましょう。祈っていてくださるイエス・キリストに助けられて、信仰を言い表すことができるのです。
さて、イエス・キリストはご自分を誰と思うかと弟子たちにお尋ねになるとき、先ずは直接弟子たちの考えをお聞きにならないで、人々の考えていることをお尋ねになります。すでに見たように、人々は好き勝手なイメージを抱いています。「洗礼者ヨハネだ」と言う人もいれば、「エリヤだ」と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいました。
もちろん、イエス・キリストがそのような群衆の意見をまず聞いたのは、人々の噂を気にしていたからではありません。むしろ、弟子たちの考えがどれほどしっかりとしているか、そのことを明らかにするためだったのでしょう。
どんな間違った見解でも、大勢の人がまことしやかにささやけば、それが正しい意見のように聞こえてくるものです。そうした大勢の意見に従っていれば、下手な摩擦も起らずに、気が楽なことも確かです。
イエス・キリストがわざわざ弟子たちの口を通して群衆の考えをまず述べさせたのは、それでも揺らぐことがない弟子たち自身の信仰告白を聞くためだったのです。
イエス・キリストは弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけられます。
このイエス・キリストの問いかけに、真っ先に答えたのがペトロです。ペトロはこう答えました。
「神からのメシアです。」
この答えは、群衆のうちの誰一人として口にしたことがない新しい答えです。
もちろん、そう答えたペトロがその時どんなメシアのイメージをが持っていたのか、はっきりとは分かりません。メシアに対する期待は民衆のうちにもあったことでしょうから、そうしたイメージがペトロの心に影響を与えていたかもしれもしれません。ただ一つはっきりしているのは、その当時どんなメシアのイメージが人々の間に広まっていたにしても、群衆の中からはイエスがメシアであるという声は一つも聞かれなかったのです。そういう意味で、ペトロがまことのメシア像を正しく抱いていたかと言うこととは別に、ともかく、イエスをメシアであると告白した点で、ペトロの答えはユニークなものだったのです。
イエス・キリストはペトロの答えを聞いて、弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないようにお命じになりました。おそらく、「メシア」という勝手なイメージだけが一人歩きすることを願わなかったからでしょう。
当時のユダヤの人々が抱いていたメシアのイメージは民族色の強いものでした。それはとりもなおさず、ユダヤ人のためのメシアでした。それも、王のように勇ましく力をもって民を解放する王の姿のメシアです。
ペトロが告白したメシアがどんなイメージのメシアであるのかはわからないとしても、イエス・キリストはメシアとしての使命を弟子たちにはっきりとお語りになりました。
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
キリスト教会が告白するメシアはこの十字架と復活のメシアなのです。あの時のペトロにはそのことは不十分にしか理解できなかったとしても、復活のイエス・キリストに出会った後のペトロには、このイエスの言葉の意味が十分に理解できたはずです。