2009年7月2日(木)必要を満たしてくださるイエス(ルカ9:10-17)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
韓国語の挨拶に「ご飯食べましたか?」という表現があります。もちろん、ほんとうに食事をしたかどうかを尋ねているわけではありません。相手のことを心から気遣う挨拶の言葉です。
知り合いの韓国の人の説明では、その昔、本当に食べるにも事欠くほど貧しかった時代、何よりも相手の身体を気遣って、ご飯を食べましたかと、イの一番に尋ね合ったことに由来する挨拶だそうです。そういう心遣いを思うと、挨拶の言葉の背後にある暖かい人間性を感じます。
きょう取り上げようとする箇所には、民衆を気遣い、必要を満たしてくださるイエス・キリストの姿が描かれています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 9章10節〜17節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二篭もあった。
きょうの箇所は「五千人の給食」と呼ばれる、キリストがなさった有名な奇跡の話です。たった五つのパンと二匹の魚から、男だけで五千人もの人々に十分な食べ物を分け与えられたという驚くべき奇跡です。そして、四つの福音書すべてが、この驚くべき奇跡を自分たちの福音書の中で報告しています。言い換えれば、四つの福音書記者がこぞって、この奇跡を語らずにはおられないほど重要な出来事と認識していたということに他なりません。それほどに、この奇跡はイエスというお方がどういうお方であるのかをよく表しているからです。
特にルカによる福音書では、ヘロデの言った「いったい、何者だろう」という言葉と、イエス・キリストご自身が弟子たちに問い掛ける「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という言葉に挟まれて、この奇跡の記事が記されていますから、自然とイエスというお方がいったい何者なのか意識しながらこの記事を読むことになります。
さて、順を追って話の展開を見ていくと、最初からいきなり五千人の給食の話が出てくるのではありません。9章10節はイエスから遣わされて出かけていた十二人の弟子たちが、伝道旅行から戻ってきたところから話は始まりす。弟子たちは自分たちの活動をイエスに報告します。その報告を受けたイエス・キリストは弟子たちだけを連れてベトサイダに退かれました。肉体的にも霊的にも弟子たちを休ませるためであったのでしょう。イエス・キリストは弟子たちの心と身体にも配慮されるお方です。もちろん、ベトサイダに退いた理由は、イエスに不気味な興味を抱いたヘロデを避けるためという意味もあったかもしれません。
いずれにしても、弟子たちだけを連れてベトサイダに退けば、群衆から距離をおいて人目を避けることができたはずです。しかし、そのことを知った群衆はすぐさまイエスの後を追ったのです。人間的な目で見れば、弟子たちとだけ過ごそうとされるイエス・キリストの予定は、群衆たちによる予想外の後追いで、思わぬ展開になりそうです。
しかし、イエス・キリストはこの群衆をお迎えになったとあります。決して拒みはなさいませんでした。なぜなら、イエス・キリストはこの群衆が必要としているものをご存じだったからです。神の国の福音を必要とする者には神の国について語り、病気の癒しを必要とする者には、癒しを与えてくださったのです。イエス・キリストは一人一人の必要をご存じで、その必要のためにご自分と時間とを惜しまずに与えてくださるお方です。
さて、夕闇が迫ってくる時間にいち早く気がついたのは弟子たちでした。こんな人里離れた場所でこのまま日が暮れてしまえば、群衆たちは行き場を失ってしまいます。明るいうちならば、近くの町や村に行って食べるものも泊まる場所も捜すことができるでしょう。弟子たちは「群衆を解散させてください」とイエス・キリストを促します。弟子たちが心配していたのは自分たちのことではなく、心から群衆を気遣ってのことだったことでしょう。そういう意味では弟子たちもまた群衆の必要を考えることのできる人たちでした。
ところが驚いたことにイエス・キリストは弟子たちに向かって「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と命じます。もちろん、後で分かるとおり、イエス・キリストにはお考えがあってそうおっしゃったのです。しかし、弟子たちにはその真意が理解できませんでした。
弟子たちの答えは、先ず第一に、今自分たちの手元にあるものではどうすることもできない、という現状に対する訴えです。第二に、買いに行きさえすれば自分たちでも何とかできるという提案です。しかし、その言外には買いに行くことは可能でも、十二人が五千人分の食糧を調達するより、五千人がそれぞれ自分の分を調達した方が現実的だという思いもあったでしょう。弟子たちにはまだイエス・キリストが何者であるのかという思いにはいたっていないようです。主イエスよ、無力なわたしたちを憐れんで何とかしてください、と助けを求める思いにはなっていなかったようです。いまだかつてそのような奇跡を目撃したことのない弟子たちには無理もないことです。イエスに言われるがままに群衆を組み分けして座らせるのがやっとでした。
イエス・キリストは弟子たち以上に群衆を気遣うことのできるお方です。気遣うばかりではなく、必要をすべて満たすことができるお方なのです。神の国の福音を語られるというばかりではなく、神の国の福音を求める者たちの心も身体も配慮して、必要なものすべてを与える力を持ったお方なのです。
次回の話になりますが、そのことを踏まえた上で、イエス・キリストは弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い掛けていらっしゃるのです。このイエス・キリストの姿を見て、イエスを何者と告白するのか、そのことがわたしたちに求められているのです。