2009年6月25日(木)イエスとは誰なのか(ルカ9:7-9)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
この番組のホームページ「ふくいんのなみ」には、政府や立法府からの思いがけないアクセスがたまにあります。わたしたちキリスト教会の側からあちらに訪問したとしても門前払いをされてしまうのがオチと思われる相手ですが、そんな場所からのアクセスがあるのは意外です。
もちろん、誰がどんな関心でこちらを覗きに来るのかは分かりません。手放しに喜んでばかりはいられないのかも知れません。ただ、その訪問にどんな意味があるとしても、時が良くても悪くても福音を語りつづけることの大切さを思います。
先週はイエス・キリストによって遣わされた十二人の弟子たちのことを取り上げましたが、弟子たちの伝道に目を見張り耳を傾けた人の中には意外な人もいました。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 9章7節〜9節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである。しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った。
きょうの箇所にはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが唐突に登場します。「これらの出来事をすべて聞いて戸惑った」というのです。「これらの出来事」というのは、直前に記された十二弟子の派遣ということではないでしょう。イエス・キリストが十二人の弟子たちを派遣したというニュースを聞いたぐらいで、ヘロデが戸惑うはずもありません。
おそらく十二人の弟子たちがあちこちで伝道活動を行なった結果、イエス・キリストの噂が、以前にもましてヘロデの耳に入ったのでしょう。その噂というのは、イエス・キリストのなさったことやお教えになったことそのものばかりではありませんでした。ヘロデが聞いて戸惑ったのはイエスについての人々の噂や憶測です。
その噂の中には「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」という者たちもいたのです。
イエス・キリストがエリヤの再来だという噂も、他の預言者の生き返りだという噂も、それだけならばヘロデを戸惑わせたりはしなかったでしょう。ヘロデを一番戸惑わせたのは、イエスを洗礼者ヨハネの生き返りだとする噂です。なぜなら、洗礼者ヨハネはヘロデ自身の命令によって投獄され、ついには首をはねられていたからです。自分が手を下した人物が、巷では生き返ったと噂されているのですから、ヘロデの心も穏やかでいられるはずもありません。
その噂を打ち消すかのように「ヨハネなら、わたしが首をはねた」とヘロデは断言します。しかし、断言してはみたものの、噂の主であるイエス・キリストが何者であるのかは、やはり気になるところです。「イエスに会ってみたいと思った」というほどですから、ヘロデの感じた戸惑いの大きさがどれほどのものであったかが想像できます。
もっとも、「イエスに会ってみたいと思った」というのは、必ずしも好意的な意味でもなければ、求道の心からというのでもありません。後にイエス・キリストに会うチャンスがヘロデにも巡ってきます。エルサレムで逮捕されたイエス・キリストが総督ピラトのところからヘロデのところに送られてきたのです。イエスがヘロデの支配するガリラヤの出身だったからです。その時のことをルカ福音書はこう記しています。
ヘロデは「イエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。」(ルカ23:8)
ヘロデが興味を覚えたのはイエスの教えや人格ではありません。イエスが行う不思議なしるしを見たいという好奇心からイエスに会いたかったのです。ヘロデの質問に何一つ反応を示されないイエス・キリストを見ると「兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返し」てしまいます。
ヘロデは民衆の噂に戸惑い、けれども、実際に会って見て、噂ほどの人物ではないと決め付けると、侮辱さえし始める始末です。
ところで、イエスに対する民衆の噂は、巡り巡って弟子たちの耳にもイエスの耳にも届いていました。イエスの噂を耳にして戸惑うヘロデの話を記したルカ福音書は、きょう取り上げたこの箇所の少しあとで、もう一度民衆の噂の声を記します。弟子たちはイエス・キリストから問われるままに民衆の声を伝えます。
「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」(ルカ9:19)
弟子たちは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問い掛けるイエス・キリストに、「神からのメシアです」とはっきりと答えます。
ヘロデの態度とこの弟子たちの態度は対照的に描かれています。ヘロデが民衆の噂に戸惑い、ついにはイエスを嘲る結末に対して、同じ噂を耳にした弟子たちは、その噂にも関わらずイエスのうちにメシアを見出したのです。
もちろん、ルカによる福音書は、ヘロデと弟子たちが同じ噂を耳にしながら、どうしてイエスに対してまったく違う判断を持つに至ったのか、その理由を詳しく分析して見せてくれるわけではありません。いえ、そもそもイエスについての様々な噂や憶測が飛び交うようになったのは、十二人の弟子たちの派遣がもたらした副産物でした。それではいったい何のために十二人の弟子たちを遣わしたのか、その意味すら見失われてしまいそうです。
けれども、ルカによる福音書は淡々と出来事を記しています。十二人の弟子たちを派遣した結果、民衆のうちに様々な噂が広まり、その噂の結果イエスの本当の姿を見失う者が一方にはおり、他方にはますますイエスについての確信を深める者がいるのです。
伝道というのは、厳しいようですが、そのことを通して救い主と出会う恵みが広がると同時に、人間の心のかたくなさや暗さが暴露されていく過程でもあるのです。あるいは時として反対する勢力の反感をますます増大させる結果をもたらす時さえもあるのです。
しかし、その両面の結果を含めて、イエス・キリストが弟子たちをお遣わしになっていることを心に留めることが大切なのです。神の国の宣教に遣わされる者たちはこの厳粛な事実をしっかりと受け止めて、くじけることなく務めに励むことが求められているのです。