2009年6月18日(木)遣わされた弟子の使命(ルカ9:1-6)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
高校生時代に読んだ本に『神の密輸商人』という本があります。冷戦時代の共産主義の国々に聖書を持ち持ち込んで伝道したブラザー・アンドリューという人の話です。
その本の中にブラザー・アンドリューが学んだ神学校での面白いエピソードが記されていました。神学生たちが伝道旅行に遣わされるのですが、イエス・キリストがその弟子たちを遣わしたときのように、ほとんど持ち物を持たされずに遣わされたそうです。
わたしが学んだ神学校でも、毎年夏に神学生たちは各地の教会に派遣されて、伝道の実践を体験学習させられました。もっとも、行った先での生活は保障されていましたので、ブラザー・アンドリューが経験したような驚きや感謝を体験することは残念ながらなかったように思います。
きょう取り上げようとしている聖書の箇所は、イエス・キリストが弟子たちを伝道に派遣する場面ですが、この箇所を読むたびに、ブラザー・アンドリューのことと自分の神学校での伝道実習のことを思いだします。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 9章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出て行くとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。
ルカによる福音書は、今までイエス・キリストが神の国の福音を宣べ伝える様子を描いて来ました。前にもお話しましたが、イエス・キリストが神の国を宣べ伝えて、町や村を巡り回ったとする記事は、4章43節にイエス・キリストご自身の言葉でこう記されています。
「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
ナザレの会堂でイザヤ書の預言の言葉を紐解いて、ご自分の活動の意味を解き明かされた日以来(4:16-21)、イエス・キリストはガリラヤ地方を行き巡って神の国をずっと宣べ伝えて来ました。そのイエス・キリストの姿を8章1節ではこう伝えました。
「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。」(8:1)
きょう取り上げる箇所では、イエス・キリストときょうまで行動を共にしてきた十二人の弟子たちが、神の国の福音を伝えるために遣わされようとしています。この十二人の弟子たちは6章12節以下のところに記されているとおり、イエス・キリストご自身が夜を徹して祈られた末にお選びになった十二名です。いわば、このときのためにお選びになり、今まで訓練してきたといってもよいほどです。もちろん、弟子たちが本格的に伝道を始めたのはイエス・キリストが復活され、天にお帰りになってから後のことです。そういう意味では、今回の派遣は、まだまだ訓練の途中の伝道実習であったのかもしれません。ただ、いずれにしても、イエス・キリストが伝道の働きを弟子たちに委ねようとしていたことは明らかです。ご自分ひとりでその働きをなさろうとしていたのではありません。
ルカによる福音書を読み進めると、この後さらに七十二名の弟子たちが伝道に遣わされますから、伝道の働きが特定の人の手に留まるのではなく、多くの人の手に委ねられていくようにと言うのがイエス・キリストのお考えのようです。
そういう意味では、この箇所はクリスチャン一人一人が、キリストの弟子として、心して読むべき箇所ということができると思います。キリストが十二人の弟子たちに委ねた働きは、めぐり巡ってわたしたちの手にするべき働きでもあるのです。
さて、伝道に派遣するに当って十二人を呼び集めたキリストは、その弟子たちに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」とあります。今までなさったイエス・キリストの働きを受け継ぐ者たちですから、悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能とは、イエス・キリストがなさったのと同じような力を委ねられたと考えてよいでしょう。
確かに、今のわたしたちの時代の伝道者すべてが、そのような権威と力をもっているわけではありません。実際、使徒言行録を見る限り、新約聖書の時代でさえ、そのような権威と力とを与えられていたのはごく限られた人たちだけでした。そういう意味では、十二人は特別な人たちであったということができます。
しかし、与えられた賜物の違いや力の大きさに違いがあったとしても、神がその人を通して働かれ、その人を通して神の国の福音が宣べ伝えられることを望んでいらっしゃることには違いはありません。
この「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」という言葉を受けて、2節では「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり」と記されています。この二つの言い方をよく見比べてみると、結局、あらゆる悪霊に打ち勝つということは、神の国を宣べ伝えることと密接な関係があることに気がつきます。なるほど、今の私たちにイエスがなさったような悪霊を追い出す力も権威もないとしても、神の国の福音を宣べ伝えることが、神の国の進展につながり、悪霊に打ち勝つ働きとなるのです。神の国の福音というのは、神が王としてわたしたちを完全に支配してくださることを告げるものです。神の支配が確立されるところには、あらゆる悪霊の束縛からの解放があるのです。悪霊の束縛というのは何もグロテスクなオカルト映画の世界ではありません。真の神から人の心を引き離すあらゆる偽りの権威と力からの解放です。
そのようにして遣わされる弟子たちにイエス・キリストは三つの注意を与えられました。一つは旅には何も持たないということです。もちろん、この命令は文字通りいつも守らなければならないという命令ではないでしょう。後に同じ弟子たちに、「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい」(ルカ22:36)と勧めています。
何も持たずに出かけるようにと勧めたのは、弟子たちが何よりも神の国と神の義を第一として生きるときに、必要なものはすべて添えて与えられることを学ぶためです。神の支配を宣べ伝える当の本人が、神を第一として生きるのでなければ、どうしてその伝える言葉を信じてもらえるでしょうか。
もう一つの注意は、立ち寄った先では、同じ家に留まるようにとの注意です。言い換えれば、より居心地の良い家を求めて渡り歩くなということです。これは注意の第一点に通じるものです。必要なものはすべて添えて与えられることを信じる伝道者は、与えられたものに感謝し、満足して伝道に励むべきなのです。
そして、最後に、神の国の福音が歓迎されない町を出るときには、足の埃を払ってはっきりと抗議の態度を示すようにということです。イエス・キリストはユダヤ人がしているように異邦人だからという理由でその場所を出るときに足の埃を払えとはおっしゃいません。むしろ相手が神の民イスラエルであったとしても、神の国の福音を拒絶するならば、その罪の大きさを相手にはっきりと示す必要があるのです。神の国の福音を宣べ伝えるということは、それほどに重要な任務なのです。