2009年6月4日(木)あなたの信仰があなたを救った(ルカ8:40-48)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

聖書の中に登場する人物を並べてみると、実に様々な人がいます。決して特別な特徴を持った人だけが信仰を持っているというのではありません。この世の中に様々な性格の人がいるのと同じくらい、聖書の中の登場人物もバラエティに富んでいます。
きょう取り上げる聖書の箇所に登場する一人の女性は、ある意味大胆な人であると同時に、ある意味控え目な性格の人です。まるで正反対の性格が同居しているような、そんな一人の女性です。しかし、その人がどんな性格であれ、またどんな生い立ちの人であったとしても、救いにあずかる恵みを神からいただいた人たちなのです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 8章40節〜48節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

きょう取り上げた箇所は、二つの話が交差している箇所です。一つはヤイロとその死にそうな娘の話です。もう一つはそこへ割り込むように登場してくる12年間出血を患う女性の話です。福音書の中ではこういう話の組み立ては少ないのですが、実際の人間の営みはいつも誰かの人生と交差しながら築き上げられていくものです。そういう意味では、きょう取り上げる場面は、どこで見かけてもおかしくないような人々の生活の一場面と言うことができます。

さて、きょうは交差した話のうちの一つだけを取り上げることにします。二つある話のどちらがメインであるかという言い方は、二人の人生の重みを比べるようで、そのようにこの二つの話に重さの違いを見出すことは、イエス・キリストの願いではないことは明らかです。しかし、その場に居合わせた人々からすれば、名前の知られた会堂長の娘と、どこの女かも分からない女性とでは、自ずと関心の注がれ方が違ったはずです。とりわけ、娘を心配に思う会堂長のヤイロには、迷惑で邪魔な女としか思えなかったかもしれません。

その女性は12年間も病を患う女性でした。12年間も病状が改善されなければ、ほとんどの人は諦めに近いものを感じることでしょう。おまけに癒されたいがために費やした時間とお金を考えると失望してしまうのも無理のない話です。ルカ福音書はこの女性を「医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女」と紹介しています。この女性が味わった失望はどれほど大きなものがあったかと思いめぐらせます。
しかし、この女性は信仰や希望を全部捨ててしまった人ではありませんでした。今までの経験から学習して、イエス・キリストにも失望させられるかもしれないと疑いを抱きながらイエス・キリストに近づいてきたのではありません。むしろ、逆で信仰と希望を抱いてやって来たのです。

イエス・キリストが「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃるのは、正にそのとおりだからです。疑う心ではなく、信じる心でイエスの救いを受け止めたのです。

とっくに失望に打ちのめされてもおかしくないその人でしたが、それでも、大胆に信じる心を持ちつづけていたのです。
その大胆さは、この人の行動にも表れていました。というのは、旧約聖書の律法によれば、女は出血のある間は宗教的に汚れた者と定められていたからです。触れた人もまた汚れた者と見なされました(レビ記15:25-27)
自分がユダヤの宗教上どういう立場にあるかを知りながら、しかも、自分に触れるものが自分と同じ汚れに染まることを知りながら、それでも大胆にイエス・キリストに近づいたのです。

このような彼女の行動を、身のほど知らずだとか、自分本位の行動だとかいう批判は当てはまりません。何よりも、イエス・キリストご自身が「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とおっしゃってくださっているのです。

のちに、ヘブライ人への手紙の作者はその手紙の中でこう言っています。

「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4:16)

その言葉にあるとおり、この女性は大胆に恵みの座に近づいたのです。

しかし、大胆な一面を持った女性でしたが、密かな面も持ち合わせた人でした。なにより、人知れずイエスに近づこうとしました。もちろん、それには理由がありました。自分が汚れた女であることが皆にわかってしまうと、イエス・キリストに近づくことができなくなってしまうと思ったからです。
しかし、密かなのは近づいたときばかりではありません。イエス・キリストから「だれかがわたしに触れた」と言われなければ、密かにその場を去っていくつもりでした。心の中で信じて救われればそれで十分と考えたのでしょう。
イエス・キリストから「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と問い詰められて、思いがけず、自分自身の信じたことを語る機会が与えられたのです。
イエス・キリストはこの告白も含めて「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」とおっしゃってくださっているのです。

イエス・キリストはご自分のもとに救いを求めて大胆に近づいてくることを願っています。諦めずに救いを求める者たちに喜んで時間を割いてくださるのです。
また、イエス・キリストは信じる心を口に出して言い表す機会を与えてくださるお方です。口にすることで、信じたことが一層確かにされるのです。