2009年5月28日(木)悪霊を征するイエス(ルカ8:26-39)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「悪霊」という言葉は、現代社会ではほとんど使われない言葉になってしまいました。むやみやたらに「悪霊」という言葉を使えば、非科学的な人間か、頭がおかしくなったのではないかと疑われてしまいます。キリスト教会の中でさえも、注意してこの言葉を使わなければ、たちどころに誤解を生んでしまいます。
けれども、そのことは、聖書がいう悪霊から人類は解放されたのだということなのではありません。科学や学問のお陰で迷信からは解放されましたが、聖書がいう「悪霊」から解放されているわけではないのです。
きょうの箇所には悪霊にとりつかれた男の話が出てきます。しかし、それは決して昔話なのではありません。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 8章26節〜39節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
福音書の中には、悪霊にとりつかれた人の話がいくつか記されています。その中でもきょう取り上げる箇所に登場するのは、まるでホラー小説やオカルト映画にでもでてきそうなグロテスクな場面です。そういう印象を与える箇所であればこそ、いっそうの注意が必要です。決してオカルト的な興味から読むべき箇所ではありません。
他方、わたしたちは、ここに登場する悪霊にとりつかれた男が、現代流に言えばいったいどんな病気なのかという、病気の診断に心を奪われてしまうことがあるかもしれません。症状を分析して様々な病気と結びつけることで、なんとなく分かったような気になってしまいます。
しかし、聖書は病気と区別して、「悪霊」による仕業であると記しているのです。それは古代人の無知からくる表現なのだと決め付けるべきことではありません。
聖書が語る「悪霊」とは神に逆らい対抗する勢力のことです。そもそも「サタン」というヘブライ語の元々の意味は「敵対する者」「抗う者」という意味です。そこから特に神に逆らう霊的な勢力をサタンや悪霊と呼ぶようになったのです。
コロサイの信徒への手紙1章21節には「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」といわれていますが、ノーマルに見えるすべての人間が、神に逆らう悪霊の支配を受けて、神に敵対する者となっているのです。そういう意味で、きょうの箇所に登場する人物は、わたしたちと無関係ではないのです。
確かに、その暮らし振りは異常だといえるかもしれません。裸で暮らしていること、しかも、家にではなく墓場を住まいとしていることは、普通に暮らす多くの人間とは違っていました。しかし、それでも、自分を普通だと思う人たちと共通する点がありました。それはイエス・キリストに対して、「かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と感じる点です。
確かにイエスを取り巻くすべての人がイエス・キリストを避けたり拒絶したわけではありません。ただ、その数は次第に増し、ついにはキリストを十字架の死にまで追いやるのです。
この男の暮らし振りから考えれば、人から異常と思われる数少ない人間であったでしょう。しかし、その感性はむしろ大多数の人間に共通しているのです。救い主であるキリストを救い主と感じることのできないところにこそ、この人特有のではなく、すべての人が影響されている悪霊の力をそこに見出すのです。
ところで、ルカによる福音書4章には、悪霊を追い出されるイエス・キリストの御業が二度ほど描かれています。その時の悪霊を追い出す様子とは違って、今回は悪霊の願いを聞き入れています。それを悪霊との交渉に応じた妥協と理解すべきではありません。悪霊たちの願いは一種の命乞いです。豚に入り込むことで命を永らえようとしたのです。しかし、イエス・キリストは悪霊たちが豚に入ることはお許しになりましたが、生き延びることはお許しになりませんでした。イエス・キリストは豚もろとも悪霊どもを湖の底に閉じ込められたのです。
そもそも悪霊の願いは滑稽なようで、しかし、やはり悪魔的です。豚にまで身を落としてでも自己実現を謀ろうとする点でまさに悪魔的です。しかし、逆に、豚も人間も同じだと考えているのだとすれば、これもまた人間の尊厳を無視する点で悪魔的な発想です。イエス・キリストは豚もろともに悪霊を湖に沈められたことで、悪霊の目論見を砕かれたのです。
さて、この話は、豚の死で終わっているのではありません。イエス・キリストの力ある業を目撃し、体験した人たちの反応が記されています。
ゲラサ地方の人々は恐れを抱きました。その恐れはイエス・キリストに対する畏敬の念ではなく、恐怖心でした。悪霊にとりつかれた一人の人が救われたという畏怖の念ではなく、多くの豚が死んだという恐怖です。大きな損害だけを見て、豚よりも価値のある人間の救いを見ることができなかった人々でした。
もう一つの反応は、悪霊から解放された人、本人の反応です。この男はイエス・キリストと共にいることを願いました。しかし、イエス・キリストはそれをお許しにならず、むしろ、自分の町に留まって神がなしてくださったことを言い広めるようにとおっしゃいました。この男はキリストから与えられた働きを真っ直ぐに受け止めて、自分の身に起った神の業を言い広めました。この場所でこの人だからこそ伝えることができる証があるのです。