2009年5月21日(木)この方はどなたなのだろう(ルカ8:22-25)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
船で長旅をするという経験を持った人は、今ではあまりいないかもしれません。海を越えるのも、飛行機でひとっ飛びの時代です。
わたしはというと、今まで二回ほど船の旅をしたことがあります。二度目のときは激しい嵐の中でしたので、生きた心地がしないくらい大揺れの旅でした。枕もとの棚に置いた荷物が、棚から転がり落ちるくらいの激しい揺れです。こういうときの海はほんとうに魔物が棲んでいると思いたくなってしまうくらいです。船に閉じ込められた自分は、この荒れ狂う海に対して何の手立てもないほど無力なのです。結局25時間で着くはずが、6時間も到着が遅れてしまいました。船酔いと疲れで乗客はみんなげんなりした様子でした。
さて、きょう取り上げる箇所には、ガリラヤの湖で嵐に行き悩み、不安に怯える弟子の姿が出てきます。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 8章22節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。
イエス・キリストが弟子たちと共に活動をなさった場所はガリラヤ湖の周辺でした。実際、イエス・キリストの弟子にはその湖を生活の場とした漁師たちもいました。ペトロとその兄弟のアンデレ、ヨハネとその兄弟ヤコブたちがそうでした。漁師たちの彼らがいれば、湖を渡って旅に出ることもそう難しくはなかったはずです。
けれども、湖とはいってもいつも穏やかとは限りません。特にガリラヤ湖は水面が海抜よりも200メートルほど低い上に、一部が山で囲まれていましたから、山の斜面を吹き降ろしてくる突然の風に脅かされることは、そう珍しいことではありませんでした。漁師であった弟子たちも、今までに何度も天候の急変は経験してきたことでしょう。
ただ、今回経験した突風は今までにないほどのものだったことは、弟子たちの慌てふためきようから明らかです。イエス・キリストを起こして「先生、先生、おぼれそうです」と叫ぶ弟子たちの様子は決して大袈裟な描写ではないでしょう。
長年の経験をもった漁師がそう叫ぶのですから、事態は深刻です。万事休すとはこのことをいうのでしょう。
ところで、この嵐の湖を旅する弟子たちの話は、弟子たちのイエスに対する驚きの言葉で結ばれています。
「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」
もちろん、この驚きの声は、たった一言で風と荒波とを静め、湖を凪にしてしまったイエスというお方への驚きです。病気を癒したり、悪霊を追い出してしまうイエスの力は今までも目にしてきた弟子たちです。その弟子たちが改めて問うほどの姿をイエスのうちに見出したということです。
海にしろ、湖にしろ、大きな水は混沌とした世界を表しています。世界の始まりを記した創世記の1章は「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とまず語っています。「深淵」とは轟くような勢いのある水のことです。この荒れ狂う水は神の命令によって一つの場所に集められて海となり、陸との境を越えることがないようにとされたのです。
それと同時に、混沌の世界が閉じ込められた海は、象徴的な意味でも人間を脅かす混沌の世界であったのです。ダニエル書の7章に記された4頭の獣も、黙示録13章に記された獣も、いずれも海を住処とし、海から這い上がってきます。そこで言われている海とは、混沌とした秩序のない世界の象徴としての海です。ですから、完成した新しい天と新しい地には海がないと黙示録で言われるのは、この象徴的な意味での海がないという意味に他なりません(黙示録21:1)。
もちろん、現実の海と象徴的な海とは切り離して考えることはできません。弟子たちが経験したものは現実に荒れ狂った湖であると同時に、命の存在を脅かす、無秩序で混沌とした象徴としての海でもあったのです。
つまり、「いったい、この方はどなたなのだろう」という弟子たちの驚きは、ただ単に自然界の脅威を治めることができるお方というばかりではありません。恐ろしい獣が這い上がってくるような混沌とした世界をも制圧できるお方としての救い主の姿を、イエス・キリストのうちに見出したということなのです。
実際、波風を静めるお方というだけでは、それはただの奇跡に過ぎません。もちろん、「ただの」という以上に、それ自体が驚きに値する力ある業であることは否めません。しかし、それ以上に、このイエスの御業が意味するものは深いのです。それは、混沌とした世界に秩序を与え、混沌に飲み込まれそうな命を救い出す力を、イエス・キリストは持っていらっしゃるということです。
ところで、この海を静める話には、弟子たちを叱責するイエス・キリストの言葉が記されています。
「あなたがたの信仰はどこにあるのか」
弟子たちに信仰が全然ないというわけではないでしょう。信仰が全然ないのでしたら、そもそもイエス・キリストに従ってくるということもなかったでしょう。また、信仰の大きい、小さいを問題とされているのでもないはずです。イエス・キリストはからし種一粒の信仰であったとしても、その信仰の大きさを決して軽んじられないお方です(ルカ17:6)。
問題なのは、いざというときに信じる心を失っていることです。いえ、わたしたちはしばしば肝心な時に大切な信仰を試されるのです。
なんでもないときに、「主は羊飼い。わたしには何も欠けることはない」(詩編23:1)ということは簡単です。しかし、本当に死の陰の谷を歩いているときに、そう告白することは簡単ではありません。
困難に遭遇するとき、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と目を覚ましてくださる主イエス・キリストに頼りながら、信仰の歩みを進めましょう。