2009年4月23日(木)多くの赦しとたくさんの愛(ルカ7:36-50)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書は罪人を赦す神の愛を語っています。その神の愛はイエス・キリストを通して最も鮮明に示されています。しかし、そのイエス・キリストのうちに何を見出すのかは、人によってあまりにも違います。
きょう取り上げる聖書の箇所には二人の人物が登場します。二人ともイエスに出会い、イエスのうちに何かを感じました。しかし、この二人の見出したものはまったく違うものでした。見出したものの違いはイエスに対する態度の違いとなってはっきりと表れました。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 7章36節〜50節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
きょうの聖書の箇所にはファリサイ派のシモンと呼ばれる男と名もない罪の女が登場します。
シモンはイエスを自分の家の食事に招きます。ユダヤ人たちは安息日の午後、ユダヤ教の先生を自宅に招いてよく食事をしたそうです。シモンがイエスを食事に招いたのはそんな習慣の一コマであったかも知れません。少なくとも自分からイエス・キリストを招いたのですから、イエスに対して少なからぬ関心を寄せていたことは間違いありません。
ところが、その関心も途中から軽蔑へと変わっていきます。罪深い女がすることをイエス・キリストが黙って受け止めているからです。
もっとも、イエス・キリストご自身の見立てによれば、シモンがイエス・キリストに対して抱いていた思いは最初からそれほどのものでもなかったのです。なぜなら、客人の足を洗う水さえ用意をしなかったからです。
ここで、シモンのために弁明すれば、それは客人を迎える者としての落ち度であったとしても、それでも、食事に招待したということ自体が、イエス・キリストに対する特別な思いをシモンが持っていたことは疑うことができません。
さて、もう一人の登場人物は「罪深い女」です。ルカによる福音書自身がその女性を「罪深い女」と紹介し、シモンも心の中でこの女が「罪深い女なのに」とつぶやいています。この町では誰もがその事実を知っているのでしょう。
この女性がやって来たのも、偶然ではありません。自分の意志でイエスに会いたいと思ってやって来たのです。噂を聞いてやって来たのか、あるいは遠巻きにイエス・キリストの教えを聞き、御業を目にしていたのかもしれません。イエスに対する思いは、ただ自分の意志でイエスに会いに来たというだけではありません。涙でイエスの足を濡らし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、埃まみれのイエスの足に接吻してやみませんでした。その上、高価な香油を惜しみなくイエスの足に注いだのです。
シモンにとっては紛れもない「罪深い女」にすぎません。しかも、自分の領域に入りこんできて、やりたい放題のことをしているのです。イエス・キリストもさせたい放題にさせています。
しかし、イエス・キリストはこの女の人を人々とは違う眼差しで観ていました。
「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」とおっしゃるのです。
イエス・キリストにとって、この女性は忌わしい「罪深い女」なのではありません。そうではなく罪の赦しと神の愛をイエス・キリストのうちに見出した人なのです。そのことはイエス・キリストに対して示した愛の大きさで分かるとおっしゃるのです。
では、シモンにはもともと罪がなかったから、赦される必要もなければ、感謝する必要もなかったのでしょうか。そうではありません。
イエス・キリストがたとえ話の中で語っているように、シモンも神の前に50デナリオンの負債を抱えた罪人だったのです。自分が罪人であることをシモンが知らないはずはありません。ただ、シモンの自覚の中では、罪の女と比べれば、自分の罪の大きさは十分の一でしかないのです。
実際にシモンの罪が罪深い女と比べて十分の一であったかどうかは問題ではありません。シモンはほんのわずかの赦しで自分の罪はすべて赦されているとしか感じていないのです。いえ、イエス・キリストが罪ある人を赦し受け入れているのを見ても、自分が同じように神から赦されているということすら思い出せないのです。
「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」
このイエス・キリストの言葉は大切なことを私たちに教えています。
第一に、わたしたちが神を愛したから、罪を赦していただいたのではありません。むしろ、その逆です。罪を赦していただき、神の無限の愛を感じればこそ、愛することができるのです。
第二に、ほんとうに罪が赦されているという思いのないところに、喜びも、感謝も、愛することもないと言うことです。表面上は信仰深く取り繕うことができるかもしれません。しかし、そんな取り繕った心が信仰生活を動かすのではありません。キリストにあっていつも罪赦され、愛されている実感こそが、わたしたちの信仰生活を豊かにするのです。