2009年4月9日(木)イエスこそ来るべき方(ルカ7:18-23)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
イエス・キリストは世の終わりについて、弟子たちにお語りになったとき、世の終わりには偽メシアが現れて自分こそメシアであると言いふらすので、気をつけるようにとおっしゃいました(マタイ24:5)。
しかし、それはイエスご自身についても言えることです。いったい自分は偽メシアではないとどのようにして証明することができるのでしょうか。不思議な業やしるしを行なったと言うだけでは、十分ではありません。
旧約聖書の時代から言われていたことですが、偽預言者がどんなに不思議なしるしを見せたとしても、ただそれだけの理由で神から遣わされた預言者であるとしてはいけないのです(申命記13:2-4)。
では、どうやって本当のメシアを見分けたらよいのでしょうか。そう思うのは当然でしょう。
きょう取り上げる聖書の箇所には、洗礼者ヨハネが獄中から弟子たちを遣わして、イエスが来るべきメシアなのかどうか、と訪ねさせました。イエス・キリストはこの質問にどのようにお答えになったのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 7章18節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」
きょう取り上げる箇所は、今まで二回にわたって取り上げた、イエス・キリストによる奇跡の業が前提となっています。前回と前々回で学んだとおり、イエス・キリストは百人隊長の部下をその権威ある言葉一つで癒し、死んだナインのやもめの息子を命に生き返らせました。
そうしたイエス・キリストの行なった素晴らしい奇跡の業は、洗礼者ヨハネの弟子たちによって、ヨハネのもとに知らされていました。洗礼者ヨハネ自身は領主ヘロデ・アンティパスによって久しく前に牢屋に投獄されていましたので、この弟子たちの報告するところによってしかその後のイエス・キリストの様子を知ることはできなかったのです。
さて、弟子たちの報告を聞いた洗礼者ヨハネは、弟子たちを通してイエス・キリストにこう尋ねました。
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
洗礼者ヨハネはイエス・キリストに洗礼を授けた時に、聖霊が鳩のようにイエスの上に降るのを見た人です。また、「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」とイエスに語りかける天からの声をイエスと一緒に聞いた人です。少なくともイエスに洗礼を授けた時には、イエスこそ神から遣わされたメシアであることは確信していたはずです。今さらながら、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」などと確信のないことを尋ねるのは少し変に思われます。しかも、奇跡の報告を耳にしてそんなことを言うのはなおさらです。
長い投獄生活で確信が揺らいでしまったと言うのでしょうか。確信が揺らいだとすれば、何が最も確信を揺るがしたのでしょうか。いつまでたっても自分が解放されない不安でしょうか。それとも、奇跡を行うイエス・キリストに、反って偽メシアの恐ろしさを感じたからでしょうか。
いえ、何もヨハネがイエスを疑っていると決め付ける必要はありません。そうではなくヨハネのもと報告に来た弟子たち自身が疑いを込めてヨハネに報告したのかも知れません。
考えてもみれば、何故洗礼者ヨハネの弟子たちはイエスのことを逐一報告していたのでしょうか。「あなたが洗礼をお授けになったイエスはメシアにふさわしく、こんなにも素晴らしい業を行なっています」という善意に満ちた報告をしたのでしょうか。
もしそうだとすると、それを聞いたヨハネがイエスについての確信を弱められてしまうと言うのは府に落ちません。そうではなく、ヨハネの弟子が既にイエスに対して疑問を抱いていたに違いありません。いえ、イエスを心からメシアであると信じていたのであれば、師である洗礼者ヨハネの証言を受け入れて、既にイエスの弟子となっていたことでしょう。
思うに、ヨハネの弟子たちの報告は、必ずしも善意に満ちたものでもなければ、中立的な報道でもなかったのです。悪意とまでは行かなくとも、イエスの奇跡を見た自分たちの戸惑いをそのままヨハネに伝えたに違いありません。
では、ヨハネも弟子たちの動揺になびいて、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」などと、確信がぐらついてしまったと言うのでしょうか。
イエスのもとにこの質問を携えて二人の弟子を遣わしたのは、ヨハネ自身のためではなく、ほかならぬ揺らいでいる弟子たちのためなのです。
しかも、「来るべき方は、あなたでしょうか」と記されているギリシャ語は必ずしも疑問文で訳さなければならないわけではありません。「来るべき方は、あなたです」という肯定文である可能性もあるのです。つまり、弟子たちの不甲斐なさに、ヨハネはあえて弟子たちをイエスのもとに遣わして「来るべき方は、あなたです。それとも、ほかの誰を待たなければなりませんか」と問わせたのです。
さて、この質問にイエス・キリストがどのようにお答えになったのか、それが最も大切なポイントです。
「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」
これは弟子たちの見聞きしたことの繰り返しです。一体、イエス・キリストは何をおっしゃりたかったのでしょうか。
実は、このイエスの言葉はイザヤ書35章5節6節で約束されたことが成就していることを物語っているのです。
イエス・キリストがメシアであるのは決して単なる奇跡を行う偉大な人物であるからではありません。預言者が語った神の御心と計画に一致しているからです。イエス・キリストの働きの中に神の御心との一致を見出せる人だけが、イエスはメシアであるとの揺るぎない確信を持ちつづけることができるのです。