2009年3月26日(木)イエスを驚かせた百人隊長の信仰(ルカ7:1-10)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
誰の言葉かは忘れましたが、信仰について示唆に富んだ言葉があります。言葉は正確ではないかもしれませんが、こんな内容でした。
「現実から聖書の言葉を判断するのではなく、聖書の言葉から現実を見つめなさい」
信仰というのは確かに絵空事ではないという意味では、いつも現実の世界と結びついているはずです。しかし、この世の中に起っていることから判断して、聖書の約束や希望を理解しようとすると、どうしても現実の世界に振り回されてしまいがちです。特に今のときのように、世界の経済が破綻し、生活に困るような現実に直面すると、途端に聖書の神は無能な神であるとそしられ、信じるに値しないと決め付けられてしまいます。
むしろ聖書の言葉の権威を信じて、聖書の言葉に照らして、この世で起っていることを見るときに、人間の罪深さをそこに見出し、神が約束する救いの希望に目を開かれるのです。信仰とは結局のところ聖書の中でお語りになっている神の権威に対するへりくだりと服従がなければ成り立たないものなのです。
きょう取り上げる箇所では、イエス・キリストを驚かせるほどの信仰について記されています。では、その信仰とはどんな信仰だったのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 7章1節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。
きょう取り上げた箇所は、百人隊長の部下がイエス・キリストから病気を癒していただくという奇跡の話です。ところが、他の箇所で記される奇跡の話とは違って、奇跡を行うイエス・キリストを中心に話が展開しているというわけではありません。話の結びは「その部下は元気になっていた」と伝えて、キリストが奇跡を行なったことを証ししていますが、実際に何かをしたという記事はどこにも見出せません。何か言葉を発したと言うのでもないのです。
イエス・キリストはただこの百人隊長の言葉に感嘆して「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とだけ述べています。もちろん、実際には百人隊長の言葉に応じて「癒されよ」と言葉を発したのかもしれません。しかし、福音書の記事はそうした奇跡を促す所作や言葉には中心を置いていないのです。
むしろ、物語り全体は百人隊長という人物に焦点を合わせて話を展開しています。
イエス・キリストが「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と驚嘆した百人隊長の信仰とは、直接的には、その直前で百人隊長が口にした言葉に表れています。それはイエス・キリストを権威ある者と信じ、一言の言葉さえあれば願いは実現すると信じる信仰です。
旧約聖書に出てくるアラム王の軍司令官ナアマンの話を知っている人にとっては、この百人隊長の信仰が、同じ軍人でありながらナアマンの信仰とはどれほど異なっているか、すぐに感じたことでしょう。
ナアマンは預言者エリシャが自分を癒すときに、預言者が自分からやって来て、神の名を呼んで患部の上で動かして病気を癒してくれるものと思い込んでいたのです。そして、期待通りの行動を取らなかった預言者に失望しかけたのです。
それとは対照的に、この百人隊長はイエス・キリストに来ていただくことさえも恐れ多いと感じ、その権威あるお言葉だけで十分に自分の願いを達成してもらえるものと信じたのです。
けれども、きょうの話をよくよく読むと、この百人隊長がそういう思いに至ったのは、最初からと言うわけではありませんでした。初めは、部下を助けにきて欲しいと、ユダヤ人の長老を遣わしてキリストに願いを伝えさせたのです。もちろん人を遣わしたのは決して尊大な思いからではありませんでした。異邦人である自分が直接行くのをためらったからでしょう。異邦人である自分の願いが当然に聞き入れられるとは思っていなかったからです。
しかし、人を遣わしてみたところで、やはり自分にはイエス・キリストをお迎えするだけの資格がないと考えて、途中でさらに別の人を遣って、ただお言葉だけをくださいと願ったのです。
この百人隊長の信仰は、ただ自分が軍人として持っている権威というものの考え方から単純に導き出されたわけではないのです。そうではなく、自分を神の前にまったくふさわしくないと思うその気持ちに端を発しているのです。世間的にはユダヤ人の長老たちがイエス・キリストに言っているように、この百人隊長は「そうしていただくのにふさわしい人」であったのには間違いありません。実際ユダヤ人のために会堂を建てる費用を工面したのですから、みんながそう思うのも当然でしょう。
しかし、それでも百人隊長が自分自身の内側を見る目は、自分に対する世間の評価とは違っていたのです。たとえ人に対しては多少なりとも誇るべきことがあったとしても、神の御前ではどう取り繕っても取るに足りない自分でしかないことを自覚していたのです。
イエス・キリストの権威ある言葉を一言だけ願う信仰の背景には、百人隊長の自分を見つめる目の確かさがあったのです。
イエス・キリストがおっしゃった「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」という驚きは、そのことも含めてのことです。
あらゆる「権威」というものがほとんどないがしろにされているのが現代の特徴であると言われますが、そうなのではありません。不遜にも自分自身こそが最高の権威者だと思い違いをするのが人間なのです。百人隊長の態度はそれとはまったく違ったものなのでした。彼はキリストの権威の前に百パーセント自分自身を委ねているのです。