2009年3月12日(木)心の倉(ルカ6:43-45)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「和魂洋才」という言葉があります。誰がこの言葉を最初に使ったのかは分かりません。明治維新以降この言葉が使われだしたということだけは、中学の頃習い聞いた覚えがあります。
その意味するところは、日本国固有の精神をもって西洋の学問技術を吸収すると言うことです。欧米の学問技術の進歩を目の当たりにした幕末から明治時代にかけて、この進んだ技術を取り入れながら、しかし、日本人の精神を決して失わないようにと思う、日本人の誇りとも、また西洋への脅威ともとれる思いが、この言葉の背景には感じ取れます。
では、近代日本が守ろうとした日本固有の精神とは一体なんだったのか、そして、それを守り抜くことができたのか、と考えてみると、わたしにはそれがおぼつかないもののように思います。また「和魂」に対立するところの「洋魂」はその時以来西洋社会で脈々と息づいているのかと問われると、それすらもわたしには覚束ないように思うのです。ただ残ったものは学問と技術だけではないかと感じる節もあります。
こんな大雑把な議論をすれば、各方面からのお叱りの声をいただくかもしれませんが、中心に据えるべき魂を失った時代に突入したのが、世俗化の進んだ現代社会なのではないかと思うのです。
ところで、きょう取りあげようとしている聖書の箇所にイエス・キリストのこんな言葉が記されています。
「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」
どんな心や魂をもって生きようとしているのか、その部分を深く考えようとしない現代のわたしたちには、このイエス・キリストの言葉がどれほどインパクトをもたらすのか、それすら危うい現代であるように思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 6章43節〜45節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
きょう取り上げた言葉は、ルカによる福音書の「平野の説教」と呼ばれる一連のキリストの教えからの箇所です。一連の教えは、イエスに従おうとする者たちへの教えです。弟子としての生きかたがそこには記されているのです。
前回取り上げた箇所がはっきりと「裁いてはいけない」という命令の言葉であったのに対して、きょうの箇所は、何かはっきり命令や勧めの言葉が記されているというわけではありません。
先ず最初に述べられていることは、植物について知識がある人にとっては、まったく当たり前の常識です。それぞれ木によって結ぶ実は決まっているというのです。逆に言えば、結ぶ実を見れば、その木が何の木であるのか、簡単に言い当てることができるのです。いちじくにはいちじくしかなりません。ぶどうの実はぶどうの木から取れるものです。ぶどうの実を期待して野ばらの中を探し回る人は誰もいないのです。
また、良い実がなっていれば、それがよい木であることがわかります。悪い実がなっていれば、それは悪い木なのです。
この植物にとって当たり前の常識を、イエス・キリストは人間の心と行いの関係に当てはめているのです。
「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
確かに、人間の行動は人間が自分の心に思い描いたことを行動に現し実現しているのです。よいことを心に描きながら、悪いことをする人はいません。逆に悪いことを描きながら、よいことを行う人もいないのです。偽善者は悪い下心を隠して、よいことをすると言うかもしれませんが、所詮その偽善的な行いも一時的なことに過ぎません。本当の心の目的はいつかは態度なり行動に出てくるものです。
ですから、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」というのは、実を見れば木が分かる植物と同じなのです。
では、このイエス・キリストの指摘した事柄から、何を学び取るべきなのでしょうか。よい実を結ぶよい木になれ、とキリストはおっしゃっているのでしょうか。なるほどそうかもしれません。悪い心の倉から悪いものが出てくるのであれば、善い行いが実を結ぶようになるためには、心を善くしなければなりません。
しかしまた、イエス・キリストはこうもおっしゃっているのです。
「茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」
そうだとすれば、茨は茨である限り、いちじくを実らすことはできないのですから、いちじくの実を期待するのならば、茨をいちじくの木に変えなければいちじくは実らないのです。しかし、それは人間の力ではどうにもできないことです。
とすれば、善い行いが実を結ぶようになるためには、心を善くしなければならないといったのは、確かにそのとおりだとしても、それは人間の力を超えたことであると受け取らなければならないのです。
しかし、それは決して諦めの勧めではないのです。人間には不可能なことなので、悪い人間は一生悪いまま過ごすほかはないと、希望のない諦めを勧めるものでは決してありません。
悪い心が悪い行いを生み出しているという現実の前に、一方では、悪い心のまま善い行いを取り繕う道が閉ざされているのです。そして、他方では、悪い心を善い心へと変える力も人間にはないのです。
とすれば、善い心をいただいて善い行いに実を結ぶには、ただすべてが可能である神により頼む他はないのです。
行動を生み出す心は大切なものです。その心が善いものであるのか悪いものであるのか、もっと真剣に問わなければならないのです。そして、その心を修復していただくために、神が与えてくださる救いを求めることが大切なのです。