2009年3月5日(木)人を裁くな(ルカ6:37-42)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人を裁くというのは必ずしも悪いことではありません。正義を実現するためには、それが正しいことなのか、間違っていることなのか、正しい判断が必要です。しかし、人を裁くとき、人は間違いを犯しやすいものです。まず、思い込みで裁いてしまうという誤りです。それは相手が間違っていると言う思い込みと、自分は正しいという思い込みです。もう一つの誤りは、そもそも正義とは何かについて深く考えもせずに、思いのままに裁いてしまうという誤りです。
イエス・キリストも人を裁くことについて、弟子たちに教えています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 6章37節〜42節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
きょう取り上げた箇所は、一見、バラバラの教えが並んでいるようにも見えます。前回学んだ個所との繋がりも、あるようでないような箇所です。
「人を裁くな」という言葉は、前回学んだ「敵を愛する」ということに繋がっているとも考えられますし、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という前回取り上げた箇所の結論にも通じています。
また、「与えなさい」という今回の勧めの言葉は、前回の「何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」という言葉に繋がっているように受け取れます。
そういう意味では、前回の学びに含めて取り上げるべきだったかもしれません。
しかし、「人を裁くな」という言葉を中心に考えると、人を裁いてはならない理由が、一連の言葉によって明らかにされているとも受け取ることができる箇所です。
まず37節には「裁くな」ということの内容が続く二つの言葉によって深められています。その一つは「人を罪人だと決めるな」ということです。「裁く」ということそれ自体は、必ずしも人を罪に定めることではありません。裁きの結果、その人が正しいと判断されることもあるからです。しかし、イエス・キリストが問題にしているのは人を罪人だと判断する裁きのことです。なぜ人を罪人だと決めてはいけないかということは39節以下のところで明らかにされますので、そのときに取り上げます。
「裁くな」ということの内容は「人を罪人だと決めるな」と言い換えられた後で、「赦しなさい」という積極的な言葉によって言い換えられています。
イエス・キリストは人を裁くことよりも、人を赦し受け容れることを望んでいらっしゃるのです。
「裁くな」「罪人だと決めるな」「赦しなさい」という言葉のそれぞれには「そうすれば」と言う言葉が続いています。
「そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」「そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」「そうすれば、あなたがたも赦される」
一見、それは「裁かれないため」「赦されるため」の条件のようにも読めるかも知れません。しかし、前回取り上げた箇所から続けて読むときに、ただの条件を述べているのではないことが明らかになります。なぜなら、イエス・キリストは返されることを当てにして何かすることを拒んでいらっしゃるからです。その理由は、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いから」です。
つまり、神の恵みと善い業がわたしたちの行いに先立っていると言うことなのです。神は情け深くもわたしたちを裁きに定めず、愛をもって受け容れてくださっているのです。そのことを信じて受け容れるのならば、恵み深い神と同じように、人を心から赦し受け容れることを願うべきなのです。
続く38節は裁きとは関係のない教えのように見えます。むしろ、前回学んだ「求める者には、だれにでも与えなさい」という言葉を思い起こさせます。
しかし、「赦しなさい」という言葉に続けて読むときに、それは「赦す」という行為の具体的な展開と考えることが出来ます。ほんとうに人を赦し受け容れたにも関わらず、必要なものを何一つ与えないのだとすれば、その人をほんとうに赦したのかどうか、疑わしくなってしまいます。
神はわたしたちを赦し受け容れ、たくさんの恵みを注いでくださっています。そうであれば、心から赦した相手に惜しみなく与えるのは当然のことなのです。
イエス・キリストは「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」とおっしゃっています。
この言葉は励ましであると同時に警告でもあります。神から赦しをいただき、たくさんの恵みが注がれていることを確信しているのならば、それと同じ秤を用いるべきなのです。いえ、その人の量る秤を見れば、その人がどれだけ神の赦しの恵みを受けとめているのかが分かるのです。
さて、39節以下は新しい段落のようにも見えます。そこでイエス・キリストは一連の譬えを語っています。盲人が盲人を道案内する危険、弟子は師にまさるものではないという真理、自分の目にある丸太に気がつかないで他人の目のおが屑を取ろうとする愚かさ、それらのことはどれも人間がはまってしまいやすい落ち度です。そうであればこそ、人を裁くことは危険なのです。
盲人が盲人を案内するというのは、真理を知らないで人を教えようとするたとえです。真理を知らない人間が簡単に人を裁いたならば、その結果はどんなに恐ろしいものであるか容易に想像がつきます。
弟子は師にまさることはないと言う真理、これは誰かを裁く前に、師として自分自身を高める必要を説いています。師自身が罪人であれば、弟子たちもまた罪人であるのは当然です。
人を裁く愚かさは正に自分の目にある丸太に気がつかないで他人の目のおが屑を取ろうとする愚かさそのものです。
正しい神を見つめ、自分自身の足りなさを見つめる時に、人を裁くことがどれほど愚かなことであるのか知らされるのです。