2009年2月12日(木)十二使徒の選び(ルカ6:12-16)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会に限らず、どんな組織でもそうだと思いますが、人が集まる集団を組織として維持していくことは簡単なことではありません。例えば、今自分が所属している組織の人事権を一任されて、自分の好きなように組織替えをすることができたとしたらどうでしょう。完璧で力強く機能的な組織に作り変えることはできるでしょうか。自分にとって都合の良い組織になるように人選することは簡単かもしれません。あるいは気の合う人を集めるだけならすぐにもできるかもしれません。しかし、一定の目的をもった組織である以上、そういうわけには行きません。
きょう取り上げようとしている箇所には、イエスが十二人の弟子たちを選び出し、特別な使命をお与えになったことが記されています。この箇所から教会という組織について教えられることをご一緒に学びましょう。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 6章12節-16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
きょうの箇所はイエス・キリストが十二人の使徒たちをお選びになった次第が書かれています。その先ず初めに記されていることは「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」ということです。
翌朝になって十二人を選び出されたことと、徹夜の祈りとは無関係ではないでしょう。イエス・キリストが十二人を選び出されたのは、夜通しの祈りの結果なのです。このことにまず心をとめたいと思います。
後の教会の基礎ともなるべき十二人をお選びになるとき、もちろん、気まぐれや思いつきで人選するはずもありません。それは夜を徹して祈るというほど重大なことであったのです。それは最初の十二人だからこそ慎重にお選びになったとも考えられますが、しかし、また、わたしたち後の教会が見習うべき模範でもあります。
使徒言行録を見ると、後にユダが十二使徒から欠けて、その欠けを補うためにマティアを選ぶ場面が出てきます。さすがに、そのために夜を徹して祈ったとは記されませんが、祈りは欠かせない要素でした。彼らは使徒にふさわしい人物を求めて神に祈ったのでした。
今日のほとんどの教会では、教会の役員を選ぶ時に会員による選挙が行なわれます。選挙の方法はいろいろあると思いますが、その選挙のために十分な祈りをもって備えるべきことを学びたいと思うのです。一人一人が良く祈らないで決めた選挙ほど、後に問題が起った時に、その問題を首尾よく解決することが難しくなるのです。夜を徹してお選びになったイエス・キリストの弟子にさえ、ユダのような裏切る者や、ペトロのようにイエス・キリストを知らないと否認する者がいたのですから、よく祈らないで決めた者たちの中から問題が起れば、その行く末はどれほどのものであるのか、想像がつくと思います。
逆に何も起らず順調に任期を勤め上げたとしても、神に祈り求めて決めたのでなければ、そこに人間の誇りやうぬぼれが入り込む危険があるのです。
実際のところ、イエス・キリストがお選びになった十二人の使徒たちは、特に人間として誇るべき何か特別のものがあったと言うわけではありませんでした。
ペトロもアンデレもヤコブもヨハネも普通の職業の人でした。宗教的に特別な訓練を積んだと言う人たちでもありません。ですから、後の時代になってユダヤ最高法院の人たちはペトロとヨハネの大胆な態度を見て、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚いたとあるほどです(使徒4:13)。むしろ彼らの目から見れば普通の人たちどころか、律法を知らない群衆は呪われているのです(7:49)。また、マタイのような徴税人はユダヤ人の間でも罪人呼ばわりされていた嫌われ者です。にもかかわらず、イエス・キリストはこの人たちをお選びになったのです。
もちろん、後の時代にはパウロのようにガマリエルのお膝元で律法を学んだエリートも使徒に加わりました。ですから、教会での選挙には最初からエリートを排除すべきであるということではないでしょう。
主が直接お選びになったのであれ、選挙を通して主のみ心が示されたのであれ、それを神の御心と信じて、謙虚に受け止めることが大切なのです。
選ばれた十二人の弟子たちはこの後、主イエスと行動を共にしますが、謙虚さを学ぶ意味での訓練も数多く受けたのです。特に自分たちの中で誰が一番偉いかを論じ合った時、仕えられる人ではなく仕える人となるように、イエスによって諭されたのでした。
また、選ばれた十二人は「普通の」とか「罪人」とか、何かひとくくりで表現できる人たちではけっしてありませんでした。
ペトロは福音書の中で何度も登場しますので、その一直線な性格よく知られているところです。また、ヨハネとヤコブにはボアネルゲス(雷の子ら)というあだ名がありましたから(マルコ3:17)、気性が荒かったのかもしれません。
違っているのは性格ばかりではありません。徴税人のようなユダヤ人から罪人扱いされる職業の者もいれば、シモンのようにその反対の極端である熱心党のものもいました。熱心党の思想によれば主である神だけがまことの王であって、それ以外の王に税金を納めることなど許しがたいことでした。徴税人と熱心党とが同居できる弟子の集団というのは不思議なくらい多様性のある集団です。
それにさらに不思議なのはイエス・キリストはこの十二使徒の一人に裏切り者になるイスカリオテのユダを加えたことです。イスカリオテのユダがなぜイエスを裏切るようになったのか、人間的な理由は様々に解説されています。たとえば、彼だけが出身地が異なるとか、あるいは会計を任されるほど彼だけが計算高い能力をもっていたからだとか、そうしたことは確かにこのグループの中で衝突してしまう一因になりうるかもしれません。しかし、そうした詮索に福音書はほとんど興味を持っていません。まして、なぜ、そのような人物を十二使徒にお加えになったのか、福音書は何も語っていません。
ただ、イエス・キリストは知らずにユダをお加えになったのではなく、あの夜を徹しての祈りの中でユダを加えることを良しとされたのです。わたしたちのユダを巡る興味は尽きませんが、ユダもイエス・キリストの熱い祈りによって選ばれた十二使徒の一人であったと言う事実だけを真摯に受けとめたいと思います。