2009年1月29日(木)安息日の主(ルカ6:1-5)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

聖書の世界になじみのない人にとって「安息日」を巡る論争ほど意味の分からないものはないかもしれません。いえ、世の中の大半の人は安息日など意識したこともなく過ごしているのだと思います。せいぜいあるとしても、週に一回か二回は休むのは当然だとする権利意識だけかもしれません。それとても、日本に関して言えば歴史の浅い出来事です。日曜日に休む習慣が日本に入ってきたのは明治以降のことです。週休二日制に至ってはごく最近、やっと言葉が定着したばかりで、まだすべての労働者が週休二日の恩恵に与っているとはいえないのが現状です。
そもそも休まず勤勉に働くことが美徳とされてきた日本人にとっては安息日の議論ほどわかりにくいものはないかもしれません。
きょうの聖書の箇所にはその安息日を巡る論争が記されています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 6章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、「なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか」と言った。イエスはお答えになった。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」

先週取り上げた箇所から続けて三つ、ルカによる福音書にはファリサイ派の人々とイエス・キリストとの論争の記事が取り上げられています。そのうちのきょう取り上げる箇所と来週取り上げる箇所は「安息日」を巡る論争です。
きょうの箇所では安息日にとった弟子たちの行動がファリサイ派の人々から非難されます。安息日に通りすがりの畑で弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べたからです。というのも、モーセの十戒の四番目の戒めには「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト20:10)と定められているからです。
ユダヤ人たちは「いかなる仕事もしてはならない」ということを取り上げて、綿密に議論しました。もちろん、どんなことをしてもいけないと言われたならば、それこそ一歩も外に出られなくなってしまいます。食事も水さえも飲めなくなってしまいます。いくらなんでも「いかなる仕事もしてはならない」と言われても、そこまで極端ではないことは誰でもわかるでしょう。
しかし、では、安息日に料理をするのは許されているのか、となりの町まで出歩くことは許されているのか、刈り入れや脱穀は安息日に禁止された「労働」にあたるのかどうかとなると、様々な意見が出てくることは予想がつきます。
刈り入れや脱穀は明らかに禁じられた「労働」に当るとしても、どういう行為が「刈り入れ」や「脱穀」に当るのか、また議論が出てきます。
実はファリサイ派の人たちから見れば弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べたということが、「刈り入れ」と「脱穀」と「籾殻を吹き分けること」と、さらには食事の準備に当ると見なされたのです。それで、弟子たちのしていることは明らかに安息日にしてはならないことをしていると非難されるのです。

その非難に対してイエス・キリストこうお答えになりました。

「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」

ここでイエス・キリストが引用した旧約聖書の逸話はサムエル記上21章に記されている事柄です。つまり、ダビデ王自身が律法に規定されている規則を破っていると言う実例なのです。レビ記24章5節以下によれば、供え物の十二個のパンは主に聖別されたパンで、アロンとその子らだけが食べることを許されていたパンです。ですから、本来ならばたとえ王であってもそれを食べることは許されないはずです。しかし、サムエル記に記された話では、祭司はダビデ王とその従者に供え物のパンを与えたのです。

そうです、イエス・キリストはこの逸話を引用することで、律法とはどのように解釈し適用すべきかを問うていらっしゃるのです。
ファリサイ派の律法の解釈と適用はあまりにも律法の言葉にこだわりすぎて、律法が求めている本質を見過ごしてしまう危険性があるのです。もし、それでも律法の言葉どおりに律法を解釈するというのであれば、ダビデ王自身とダビデにパンを与えた祭司を律法の違反者として弾劾すべきなのです。
しかし、実際のところ、このダビデの話は律法に違反しているとファリサイ派自身も理解してはいないのです。つまり、律法はいつも字句どおりに解釈し適用すべきでないことはファイリサイ派自身も認めているところなのです。

「いかなる仕事もしない」というのは安息日定めた律法の目的ではありません。少なくとも「どんな仕事もしない」ということに安息日の中心はないのです。ですから、どんなに安息日に禁じられた仕事をこと細かく分類してみたところで、安息日の主旨を守ったことにはならないのです。むしろ安息日に守るべきことは、この日を特別に神のために聖別することです。
もちろん、その目的のために「いかなる仕事もしない」ということが目的達成の手段としてあげられていることは確かです。けれども、自分たちが細かく分類した事柄の一つでも破ったならば、安息日の聖別が破られたと理解するのは、あまりにも自分たちの定めた決まりの字句にこだわりすぎているのです。

さて、もう一つ、イエス・キリストはファリサイ派の批判を論駁してこうおっしゃいました。

「人の子は安息日の主である。」

この場合、「人の子」というのは「人間」と言う意味にも取れます。つまり、人間こそ安息日の主人であって、非人間的なことをこの戒めに押し付けることは、律法全体の趣旨に反した解釈だということです。

しかし、「人の子」という言葉は新約聖書の中ではイエスの称号のようにも用いられています。つまり、人間一般が安息日の主人なのではなく、イエス・キリストこそ安息日の主人だというのです。ダビデ王が律法を字句どおりに解釈しなかったことが許されるとすれば、それ以上にイエス・キリストは律法に対して主人たるお方なのです。
その意味は他のところでイエス・キリストがおっしゃっているように、律法を廃棄するためにではなく、成就するためにキリストが来られたと言うことです。
イエスこそ安息日をほんとうの意味で成就することのできるお方です。ファリサイ派や律法学者が律法を字義どおりに守ろうとしている根底には、自分の力で律法を成就できるという考えが見え隠れしています。けれども、イエスの恵みだけが人を罪から解放し、人にまことの安息を与えるのです。その者だけが安息日を聖別し、安息日を自由に心から生き生きと守る者へと変えられるのです。