2009年1月15日(木)わたしが来たのは(ルカ5:27-32)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と云えり」と書いたのは、有名な福沢諭吉です。その福沢諭吉がこの言葉をどこから引用してきたのかというのは興味のあるところです。一説によればアメリカ独立宣言の一部を要約して意訳したのだといわれています。その独立宣言には自明の真理として、すべての人は平等に作られていること、また、創造主によってある種の奪いがたい権利が付与されていることが述べられています。
さて、神によって平等に造られているはずの人間ですが、罪深い現実の世界では平等であることを実感するのはとても難しいことです。些細な違いを理由に相手を自分の下に置きたがるのが正に人間の罪深さです。
その罪深さから人間を解放するのがまことの救い主の働きです。しかし、人間の罪深さは、そのことさえもしばしば認めようとしないのです。救いの世界にも優劣をつけて、人が人を排除するほどに罪深いのです。
きょうとりあげる箇所にはそうした人間の罪深さが描かれる一方で、キリストがもたらす救いに喜びをもって応える人の姿が描かれています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 5章27節〜32節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
きょうの箇所に登場するのはレビという名の人物です。この人の職業はローマ帝国のために通行税を徴収する徴税人という仕事でした。徴税人といっても正確にはローマ帝国の公職についている人ではありません。税金取り立て請負人といったらよいかと思います。ある期間を定めて、お金を前払いして、この仕事を請け負うのです。前払いした分を徴収できなければ損をしてしまいます。しかし、通行人の無知に乗じて、多めに取り立てることができれば、私腹を肥やすことも可能です。そうした汚い手口は、彼らが罪人と呼ばれる理由でもあります。
しかし、ユダヤ人が徴税人を軽蔑した理由はそればかりではありません。同じユダヤ人でありながら、まことの神を信じない異邦人の王のために仕えているからという理由もありました。しかも、仕事柄、異邦人と接する機会は避けられません。それだけでも汚れていると見なされたのです。
確かに不正な手段でお金を手に入れることは褒められたことではありません。罪人だと言われても反論はできないでしょう。
けれどもその徴税人をイエス・キリストはわざわざお招きになって「わたしに従いなさい」とおっしゃったのです。そして、徴税人のレビも、その招きの言葉に応じて「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」のです。
もちろんイエス・キリストについて何もまったく知らないレビが、言われるままに従っていったと考える必要はありません。イエスについて噂は耳にしていたでしょうし、徴税所で仕事をするかたわらにでも、イエスの教えを耳にする機会はあったのかもしれません。
とにかく、イエスの教えを耳にしていた人は他にもたくさん居たでしょうが、誰もがみなイエスを受け容れたと言うわけではないのです。レビはイエスの招きをしっかりと受け止めて、何もかもを捨ててイエスに従ったのです。そこがまず注目すべき第一の点です。何かと理由をつけて、自分への招きを聞こうとしなければ、何も始まらないのです。
そして、レビはただ自分がイエスの招きに応じたと言うばかりではなく、自分の家にイエスを招いて盛大な宴会を催したと言うことです。宴会の大きさはどれほど大きな喜びをレビが感じていたか、その喜びの大きさを表しています。レビは心に感じた喜びをそのまま宴会という形で表しているのです。
しかも、この宴会はイエスと二人きりで楽しむ宴会ではありません。仲間の者たちもこの宴会の席に呼んだのです。感じた喜びを自分の周りの人にも分け与えたいという素直な気持ちの表れです。
救いの喜びと言うものは、改まってかしこまって伝えるようなものではありません。福音を伝える原動力はこうしたイエスとの出会いから生まれた素直な喜びにあるのです。
ところで、シモン・ペトロがイエスに招かれる時、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(5:8)と言いました。それに比べて、まるで浮かれているようなレビには罪意識と言うものはなかったのでしょうか。そんなことはないでしょう。人から罪人呼ばわりされている以上に、自分の罪を自覚していたはずです。そうであればこそ、罪人の自分にイエス・キリストが声をかけてくださり、自分を受け容れてくださったことに喜びを隠せないのです。
さて、ことの次第を見ていたファリサイ派の人たちは、レビやその仲間の人たちと一緒に喜ぶことはできませんでした。その理由はなんだったのでしょうか。彼らはイエスとその弟子たちにつぶやいてこう言います。
「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
ここには二重、三重の差別的な見下しがあります。まずファリサイ派の人たちは何があっても徴税人は罪人であるという見解を変えようとしません。徴税人であることの何もかもを捨ててイエスに従ったことを、レビの心の中で起った変化の表れとは少しも思っていないのです。そう思えないのはレビが罪人であるという軽蔑の思いがあるからです。
しかし、その軽蔑の思いはレビや仲間の徴税人に対してだけあるのではありません。まず、レビを招き、レビが催した宴会に与っているイエスにも向けられます。さらにはその弟子にもつぶやくことによって軽蔑の思いをあらわにします。その心の裏には、自分だけが救いにふさわしいと言う思い上がりがあるのです。他人の罪をあげつらって、自分の心のうちにある罪に目を留めようとしていないのです。
そのようなファリサイ派のつぶやきに、イエス・キリストは答えて言いました。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
まさにイエス・キリストがこの世に来られたのは罪人の救いのためです。罪人は徴税人ばかりではありません。誰がイエスを必要としている罪人なのか、イエスの招きに心を静めて聞く必要があるのです。