2009年1月1日(木)救いはイエスのお心(ルカ5:12-16)
新しい年を迎え、いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
自分の救いを確信するということがそんなに簡単ではないことは自分自身の経験からよくわかります。
もし、自分にまったく罪がないのであれば、そもそも罪からの救いそのものが必要ではありません。罪があるからこそ罪からの救いが必要なのです。そう考えると、自分が罪人であることは、救いの確信の妨げにはならないはずです。
しかし、罪があるのに神はわたしを神の御前に進み出ることを許してくれるだろうか、と考えると、聖なる清い神の前に進み出ることさえ、ためらわれてしまいます。
しかし、だからこそ神は罪を赦し、御前に近づいて救いに与ることをよしとしてくださっているのです。そして、そのことを信じる心で受けとめることが救いの確信に繋がってくるのです。
しかし、そう頭で分かっていても、他の人はいざ知らず、果たして自分が救われるかどうかなかなか確信をもつことができないのがわたしたちです。まして、自分が不幸な境遇にあればなおさらのことです。
イエスの時代には、重い皮膚病に掛かかれば、そのこと自体が救いの確信を疑わせてしまうに十分な理由でした。この病に掛かっていること自体が、救いの望みも希望のないことを物語っているように思われたからです。
きょうの取り上げる聖書の箇所には、この重い皮膚病を患う一人の人が登場します。果たしてイエス・キリストはこの人をどのように扱ってくださるのでしょうか。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 5章12節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。
旧約聖書のレビ記には重い皮膚病に罹った人がどのように生活しなければならないかという規定がありました。それによると、次のように言われています。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。(レビ記13:45-46)
先ず第一に、一目でそれとわかる格好をしなければならなかったと言うことです。その上第二に、自分で「わたしは汚れた者です」と言わなければならなかったのです。さらに悲しいことに、宿営の外に隔離されて一人住まなければならなかったと言うことです。
重い皮膚病は絶対に治らない病気ではありませんでしたが、時がたてば必ず治るという保証がある病気でもありませんでした。そうであればこそ、いつ終わるとも分からない隔離された生活に、神からさえも見捨てられたのではないかと思ってしまうこともあったでしょう。単に衛生上の理由で隔離されているという以上の暗黙の重圧がのしかかっていたのです。
きょう登場する全身重い皮膚病にかかった人がイエスに対して最初に口にした言葉は「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という控え目な願いでした。
この人がイエスのもとを訪ねたのは、言うまでもなく病を癒すイエスの名声を耳にしたからでしょう。あるいはひょっとすると、実際に病気が癒され悪霊が追い出される場面を遠巻きながらにも目撃したことがあったのかもしれません。
いずれにしても、この人がイエスのところへやって来たのは、病を癒し救いをもたらすイエスの力を信じていたからに違いありません。しかし、そのイエスの力を果たして自分に使っていただけるかどうか、確信があるわけではありません。ですから、とても控え目な言い方で、自分の願いを述べています。
この男が言うとおり、確かに御心ならば治らない病はありません。しかし、現実には癒されることなく今に至るまでの自分がいるのです。「あなたが今に至るまで癒されないのは御心ではないからだ」と言われて、追い返されてしまえば、何も反論できないかもしれません。複雑な心境で、なお、それでもわずかな望みでも得たいと思って、このように控え目にイエスのもとに進み出たのでしょう。
いえ、先ほど引用した旧約聖書のレビ記の教えに従えば、こうしてイエスのもとにくることすら憚られることでしょう。
けれども、こうした控え目な、そしてためらいがちな願いとは裏腹に、イエスの行いと言葉は、この男の期待以上のものでした。
先ず第一に、イエスは「手を差し伸べてその人に触れ」られたのです。この病に冒されれている人を何の躊躇もなく触れるということは普通考えられないことです。このイエスの行為自体が、どんな言葉よりも雄弁に、この人が神によって受け入れられていることを告げ知らせています。
その上さらにイエスは言葉でも告げて言います。
「よろしい。清くなれ」
実は「よろしい、清くなれ」という表現は日本語らしくするための意訳です。文字通りのイエスの言葉は、「御心ならば」という男の発言を受けて、「わたしの心だ。わたしはあなたが清くなることを心から望んでいる」という表現です。
この人が病から清められて救われることは、イエスの心からの願いであると宣言してくださっているのです。
神の子であるイエス・キリストが手を差し伸べ、神の子であるイエス・キリストが「わたしが望む、清くなれ」とおっしゃってくださるところにわたしたちの救いの確実さがあるのです。そして、このイエスの行いと言葉はだれか他の人のための言葉ではなく、まさに神の御前に清められることを願うすべての人に向けられているのです。そう信じるところにこそわたしたちの救いの確信の確かさがあるのです。イエス・キリストが罪に汚れたわたしたちに進んで手を差し伸べて触れてくださいます。イエス・キリストが罪あるわたしたちに「わたしの心だ、清くなれ」とおっしゃってくださっているのです。このイエス・キリストに従って行きましょう。