2008年12月18日(木)福音を伝える主(ルカ4:42-44)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
わたしの職場の壁に、前任者が置いていった額が一枚掛かっています。その額にはこう書かれています。
「忙しいと言うだけでは十分ではない。問題は何のために忙しくしてるのかということだ」
確かに仕事は暇であるよりも忙しいくらいの方がやりがいもあり、充実感もあります。しかし、忙しいと言うだけで満足してしまうのでは、その仕事がいったい何のための仕事であるのか、その目標を見失ってしまう危険があります。
どんな仕事でもそうですが、働きの目標がはっきりとしていなければ、どんなに忙しく毎日を過ごしていたとしても実りがありません。まして、救い主であるメシアが働きの目的を見失ってしまったらどうでしょう。
きょう取り上げる聖書の箇所には、イエス・キリストの目的意識がはっきりと記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 4章42節〜44節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。
今お読みした箇所は、カファルナウムでのある安息日の出来事から続く箇所です。イエス・キリストは安息日には会堂にお入りなって聖書を解き明かされました。午後にはゆっくりと食事を取る暇もなく、シモン・ペトロの家でペトロのしゅうとめの熱病をお癒しになります。そして、日が沈んでからは、さらに多くの人たちが病人たちをイエスのもとに運んできたので、その対応にたくさんの時間を費やされます。
きょうの箇所の出だしは「朝になると」という言葉で始まります。前日の夕方から始まった人々の訪問はひっきりなしに続いて、ひょっとしたら夜中まで続いたのかも知れまません。大忙しのイエス・キリストです。
それでも、とにかく一人でも多くの人々の必要にお応えになって、恵みと憐みを限りなく人々に注いでくださったのでした。
しかし、イエス・キリストはこの忙しさを夜が明けても延々と続けようとはなさらなかったのです。人々の必要と言うことを考えれば、手を休める暇もなかったことでしょう。実際、イエス・キリストはユダヤ人から訪ねられて「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ5:17)とお答えになったほどです。
しかし、そうおっしゃるイエス・キリストではありますが、夜が明けてもなお引き続き、働きを続けようとはなさいませんでした。
「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。」
と、ルカによる福音書は記しています。人里離れた所でいったい何をなさったのでしょうか。イエス・キリストが人里離れた場所に出て行かれる話は、ルカによる福音書には5章16節にも出てきます。そこには「イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた」とあります。
そうです、人里離れた場所に退かれるのは祈りのためなのです。
イエス・キリストにとって祈りの時、神との交わりの時は欠かすことができないものだったのです。より多くの人々と接し、より多くの人たちの必要を満たすには、食事の時間を削ったり、睡眠時間を削ったりして時間を捻出することは大切かもしれません。しかし、イエス・キリストにとってはどんなに目の前の人々の必要が大きくても、祈りの時間、神との交わり時間を省いてまで、それに応えることはできなかったのです。
こう言ってしまうと、まるでイエス・キリストが冷く扉を閉ざして、どこかに行ってしまったような誤解を与えてしまうかもしれません。そうではなく、まだ人々が再びやってくる前の、夜明けのひと時を用いて神との交わりの時をもたれたのです。
英語の単語にretreatという言葉があります。本来の意味は「退却」とか「後退」と言う意味です。そこから派生して「隠れ家」「静養先」などの意味が生まれますが、三番目ぐらいの意味に「黙想」と言う意味があります。おそらく、イエス・キリストが一歩退いて祈られたところから来た言葉でしょう。
一歩退いて祈ること、このことの大切さをイエス・キリストはわたしたちに教えてくださっているのです。忙しさの中で目標を見失わないように、イエス・キリストはいつも一歩退いて神と語らい、神との交わりを大切にされていたのです。
さて、この祈りの生活を遮るように、再び群衆たちがイエスを探し回って押し寄せてきます。この群衆たちの願いはイエスが「自分たちから離れて行かないように」と言うものでした。
すでに学んだように、イエスの育った町ナザレの人々の反応とは、確かに正反対のものです。ナザレの人々は「イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(4:29)のでした。
正反対の反応ではありましたが、しかし、そこにもイエスの働きを妨げるものがあったのです。それはイエス・キリストの与える恵みを独り占めにしてしまおうと言うものです。
イエス・キリストはこのカファルナウムの人々の求めに対して、はっきりとこうお答えになりました。
「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
イエス・キリストは神との祈りの交わりの中で、いつもご自分に与えられた使命を確認し、自覚なさっていたのでしょう。何のために自分は忙しくあるのか、しっかりとその答えを持っていらっしゃいました。
カファルナウムの人々の願いは魅力的であったかもしれません。ここに留まれば人々からは歓迎されるでしょう。ナザレの人々のような、崖から突き落とそうとする危険からも逃れることができるでしょう。どんなにご自分にとっていいこと尽くめであったとしても、与えられた使命をまっとうできないならば、それは罪への誘惑なのです。
やがて、この話は来週の話へとつながっていきます。来週取り上げようとする箇所には、人間を取る漁師として最初の弟子たちが召し出されます。
イエス・キリストご自身がご自分の使命を曖昧とされていたのでは、弟子は従いようがありません。何よりもイエス・キリストが神の国の福音を伝える使命をしっかりと持って働いてくださるからこそ、それに続くわたしたちもまたその御業にあずかることができるのです。